第八十六話 逆に怪しい
ラフィーナに呼ばれてやってきたアベルは、話を聞いて早々に眉をひそめた。
「姉上のところに行ったミーアが行方不明……? しかも、ヴァイサリアン族の女性が司書神官に紛れ込んでいたかもしれない、か……」
アベルは、気持ちを落ち着けるように深く息を吐いて……。
「館内を探すのは、ミーアたちが外に出ていないと確認した後のほうがいいでしょうね。その間に、そのジーナという女性の部屋に探りを入れてみましょう」
神聖図書館の警備兵に確認する時間を惜しみ、アベルが言う。
「そうね、それは必要でしょうね」
勝手に部屋に入ることの是非はあるが、場合が場合だ。躊躇いなどない。さらに、
「それとラフィーナさま、この際は、ハンネス・クラウジウス卿にも協力をお願いするべきではないでしょうか? 蛇のこともそうですが、確か、ベルが見つけた古い図書館の地図も彼のもとにあるはずです」
そう言われ、ラフィーナはハッとした顔をする。
「確かに、そうだわ。もしも蛇が関係しているのであれば、ハンネス殿にも協力を要請するべきね。それに……」
「ええ。こんな時間ですが、パトリシア嬢にも協力してもらったほうがいいでしょう」
蛇の専門家たるシュトリナがいない以上、最もそのやり口に通じているのは、地を這うモノの書を読みこんでいるハンネス、そして、最年少のパティであった。
子どもが起きている時間ではないが、ここは協力を求める必要があるだろう。
ラフィーナはすぐにモニカのほうに目を向けるが……。
「私が行ってまいります。みなさんは、その間に、その第六資料管理室長の部屋に行かれてはいかがでしょうか?」
そんなリンシャの申し出があった。
確かに、元諜報員のモニカに人を呼びに行かせるだけではもったいないだろう。調べ物にも護衛としても、頼りになるはずだ。
「わかりました。それならば、我々はジーナさんの部屋に向かいましょう。リンシャさん、お願いするわね」
それだけ言うと、ラフィーナたちは早速、動き出した。
第六資料管理室長、ジーナの部屋は、神聖図書館の三階にあった。
そこは、各司書神官の暮らす部屋が並んでいる一角だった。
念のために扉をノックしようとしたところで、モニカに肩を掴まれる。
「どうかしたの? モニカさん」
不思議そうに首を傾げるラフィーナに、小さく首を振ってから、モニカは扉と壁の隙間に灯りを寄せ、丹念に調べ始める。そして……。
「ああ、やっぱり……」
そうつぶやくと、彼女は、なにかを摘まみ上げた。よく見ると、それは……。
「髪の毛……かしら?」
「はい。よくやる手ですね。誰かが、彼女がいない間に勝手にこの部屋に入ったら、わかるようにしているんです」
ドアが開けば、髪が床に落ちる。それに、髪が廊下に落ちていても、誰も気にはしないだろう。
「すごい警戒ぶりだね……これは、怪しいと考えるべきだろうか……?」
アベルの問いかけに、モニカは少し考えるように黙ってから、頷いた。
「そうとばかりは言い切れないと思います」
モニカの答えは慎重だった。なにしろジーナ・イーダは混沌の蛇対策の最前線にいる女性だ。いつ蛇と遭遇しても良いように、普段からベールで目線を隠している、と、自身でも言っていた。
同じように、蛇に対して罠をはっていても、不思議はないだろうし、言い逃れも容易だろう。
「念のために、私から入ります。滅多なものは仕掛けられていないと思いますけど、念には念を入れましょう」
そう言って、モニカは素早く扉の鍵を開けてしまう。元サンクランド諜報部員にとっては、この程度のことは朝飯前なのだ。
音もなく扉を押し開く。っと、室内は、ごくごく一般的な部屋だった。
机や衣装ダンス、ベッドが置かれているだけの、極めて簡素な部屋だ。
モニカは素早く、衣装ダンスを開け、中に誰も隠れていないことを確認。他にも、罠が張られていないかを念入りに調べていく。
「わかりづらく毒針の類を仕込んでおくこともあるかもしれませんが……さすがにそこまで露骨なものはない、かな……」
しばし、部屋の中を見て回ってから、モニカは振り返った。
「特に罠のようなものは、見つかりません。でも……」
モニカは眉をひそめて、室内に目を戻した。
「怪しい物も、見当たりませんね……」
「というか、物自体が少ない感じがするな……」
目ぼしいものと言えば、見せつけるようにしておかれた神聖典のみで。他には、地を這うモノの書どころか、書籍の類は見当たらない。羊皮紙の一枚も、部屋にはなかった。
衣装ダンスの中には、替えの神官服のほか、何着か私服が吊るされており、それも、地味な布の服だけで……。
じっと黙って腕組みしていたアベルが、口を開いた。
「ラフィーナさま、ジーナ嬢は、仕事にあまり熱心ではなかったのですか?」
「いいえ、かなり熱心であったと聞いているわ。そもそも、アンタッチャブルだった地を這うモノの書の中身を検証して、蛇に有効な対策を練ろうと提案したのは彼女だった。それ以来、熱心に蛇関連の書物を研究しては、さまざまな成果を上げている人よ」
「だとすると……」
っと、眉根を寄せて顔を見合わせる二人に、
「……逆に怪しい感じがする」
抑揚のない、可愛らしい声が響いた。
視線を向けると、そこには……眠たげに目元をこするパティが立っていた。
……あまり感情のこもらない声は、眠すぎるからか、いつも以上に抑揚を失っているようだった。