第八十五話 一石三……
「いい? クラリッサ。姉として、アベルを守るのですよ」
幼き日……、母は言った。
「アベルは、このレムノ王国の王子です。ゲインになにかあれば、子のアベルがレムノの王権をその身に負う者となるのです。だから、あなたが守ってあげるのですよ」
そう、事あるごとに、クラリッサに教えた。
それは、レムノ王国の王妃の価値観。あるいは、レムノ王国の貴族夫人の価値観だった。
彼女は、もともとレムノ王国の侯爵家の出身だった。建国時より、レムノ貴族に名を連ねた、伝統的な家で育てられた彼女は、レムノ王国の価値観をしっかりと身に着けていた。
個人としては、まずもって善良な人だった。
母親としてできる限りの愛情は注いでくれたし、王女として必要な立ち居振る舞いは、すべて、母から教えられた。
レムノ王国の王妃として、貴族社会に生きてきた女性として、標準的な価値観を持った人であった。
そんな母から言われたその言葉は、幼い日のクラリッサの、一つの指針であった。
「アベルの面倒は、私が見るようにしないと……」
っと、そんな認識が染みついていた。
アベルは、立てるべきレムノの王子で、自分の代わりに役割を果たしてくれるであろう優秀な青年で……でも……いつまでも変わらず守るべき弟という認識だった。
それゆえに……クラリッサは……混乱していたっ!
「仲の良いご学友という認識でいるのですけれど……」
ミーアに投げかけたその言葉は、特に意味のあるものではなかった。何の気もなしに、ただ、流れで口にしただけの質問だった。
だから……。
「恋人ですわ!」
返って来た答えを、クラリッサは……。
「ああ、なるほど。そういうことなのですね。なるほど……」
一瞬、聞き流しそうになって……でも。
「なるほ……ど? …………はえ!?」
次の瞬間、思考が止まる。
思わず、ヘンテコな声が出てしまう。
大人しい彼女にしては非常に珍しい……なんとも素っ頓狂な、そして、どこかミーアじみた声だった!
――え? え? こっ、恋人? ミーア姫殿下が、アベルの、恋人? あの帝国の叡智が!? ええっ!?
大いに……大いにっ! 動揺する!!
――恋人……いえ、そもそも恋って……なに?
クラリッサは、恋などというものを未だ知らない。読み物では読んだことがあるが、自分の経験としては、ただの一度も触れたことがなかった。
元より王女として、自由な恋愛など想像したこともなかった。それに、ヴェールガ国内の有力貴族との縁談の話は、何度かあったが、いずれも上手くいっていなかったから、お見合い、婚約から恋に発展するなどと言うこともなかった。
そんな状況で……、弟のアベルのほうが先に恋をしていたということが、実に衝撃的であった。
最近、たくましくなってきたとはいえ、頼りになるようになってきたとはいえ、恋愛関係の印象はまるっきりなかったから。
「ええと、アベルからは、お聞きになってませんでしたの?」
不思議そうな顔をするミーアに、クラリッサはブンブン、と首を振る。
「きっ、聞いておりませんでした! え? ミーア姫殿下が、アベルと……!? ど、どど、どういう……え? い、いつから……? ええ?」
「あら、次はわたくしが質問する番ですわよ?」
ミーアは澄まし顔で言って、うーん、っと首を傾げて、
「そうですわね……では……んっ? あれは……」
その時だった。ミーアがふと足を止めた。
そこは、水路沿いに設けられた、小部屋のような空間だった。作業員の休憩室かなにかだろうか?
眉をひそめるクラリッサは、そちらに灯りを向ける。っと、そこには大きな瓶がいくつも並べられていた。
「これは……」
その部屋に足を踏み入れて、ミーアは思わず眉をひそめる。
その空間には独特の匂いが立ち込めていた。嗅ぎ覚えのある、この香りは……。
「ムーノリーブ油、ですね……」
クラリッサの言葉に、ミーアはポコン、っと手を打った。
「ああ! そうですわ! 料理長が作ってくれたテリーヌのソースの香りですわ!」
あの良い香りの油で作ったドレッシングをかけたテリーヌが、絶品なのだ。
滑らかな舌触りの、こってりしたテリーヌと、酸味のあるソース。そこにムーノリーブ油の甘く芳しい香りが合わさって、実になんとも神々しい味になるのだ。
――しかし、ムーノリーブ”油”……これって、もしかしなくても、図書館を燃やすために用意していたものなのかしら?
こんなふうに、地下水路に油が置かれている理由が、他に思いつかなかった。
――なるほど、この地下を通って油を運び入れれば、人目にはつきませんし。そう考えると、クラリッサ姫殿下が容疑者にされたことにも納得がいきますわ。夜中に廃棄区画に入って、星を見ていたのであれば、そこで捕まって罪を着せられた可能性は大いにありそうですし。うっかり、この地下道を見つけてしまったがゆえの口封じをされた可能性もあるかしら……。
チラッとクラリッサの顔を見て、
――あるいは、放火の準備だけ整えたうえで、最後の最後、火をつける役だけやらせたか、かしら? ふぅむ……。
蛇は、相手の心を操るもの。クラリッサにプレッシャーをかけ続け、耳元でこっそりと、燃やしてしまえ、と囁くというほうがありそうだ。
そこまで考えてから、ミーアはクラリッサに目を向けて……。
「それにしましても、さすがですわね。クラリッサ姫殿下。ムーノリーブ油、よくご存じでしたわね」
そう褒めると、クラリッサはスッと目を逸らして……。
「別に、大したことではありません。ただ、お料理によく使う油でしたから……」
「まぁ! お料理! いいですわね。油の香りを覚えるほどに、お料理に習熟しているだなんて、うらやましいですわ」
これは、わたくしも負けてられませんわよぅ! っと、誰かにとっては非常に迷惑な決意を新たにしつつ、ミーアは言った。
その……瞬間だった。ミーアの脳裏に、閃きが生まれる!
――あっ、そうですわ! せっかくですし、お料理関係の話題から探りを入れてみることにするのはいかがかしら。クラリッサ姫殿下の心理を探りつつ、わたくしもお料理に詳しくなれて、一石二鳥。それに、お料理知識をヨイショすれば、口も軽くなるかもしれませんし、一石三鳥ですわ!
一石で苦労人三人ぐらいならヤッちまえそうなことを考えるミーアの耳に、ふと……。
「私は……ミーア姫殿下がうらやましいです」
クラリッサの、小さな声が届いた。