第八十三話 偶然の支配する世界
「あーあ、派手に崩れましたね。何度か通っていたから、ゾッとしてしまいますね」
崩落箇所までやってきたジーナ・イーダは、そこから下を覗き込み、深々と唸った。
「しかし、今日まで私が生きているのは、実に皮肉な偶然というものですね。まるで、帝国の叡智をこの斧で刈り取れ、と何者かの作為を感じてしまいますね」
唇に指を当て、悩ましげな表情を浮かべた彼女は、次の瞬間、口元に笑みを浮かべる。それは、自身の発言を小馬鹿にするような、嘲笑だった。
「何にでも、繋がりと作為を見出してしまう、人間の悪癖というものですね。すべては偶然に過ぎないのに」
ある蝶は卵を産み、子孫を残せて、ある蝶はサナギから孵ったその日に蜘蛛に捕らわれて呆気なく死ぬように。
ある魚は鳥に食われ、ある魚はより大きな魚に食われ、でも、その隣を泳いでいた魚は生き残り、子孫を残せるように……。
それは、そう……ただ、ちょっとした気まぐれの、偶然によって連綿と紡がれていく世界。すべて、偶然に支配された世界だ。
長く続く国も、王侯貴族の血筋も、結局は数多の偶然に恵まれて残ってきたに過ぎない。
そこには意味はない。
ただ一つ、意味を持つものこそが……。
「ただ、自分が選び、行うこと……それだけがただ意味を持つ……」
いつか聞いた、誰かの言葉を口の中で反芻し、それから、ジーナは前方を眺める。
「ふーん。跳び越えられないこともないでしょうか。落ちたら死んでしまいますかね」
それから、彼女は先ほど見た光景を思い出す。
「見たところ、部屋に二人。跳び越えたのも二人。どちらがミーア姫殿下か……。部屋に隠れてるのがそうなのか、それとも、向こう側に行ったのがそうなのか……」
試しにドアノブを握ると、固い手応え。どうやら、内側からカギをかけられているらしい。まぁ、当然か。
「こんな扉、破るのは造作も無いことですけど……。反対側に渡った者たちが、そのまま進んで行って、廃棄区画の封鎖を解いてしまうかもしれませんね。んー、どっちを狙いましょうか?」
一瞬、考え込んでから、ジーナは扉に向けて斧を叩きつけた。
ガツンッと乾いた音を立てて、扉が弾け飛ぶ。
「ま、目についた近くからいきましょうか……」
ゆっくりと室内へ。手持ちの灯りでは、室内の闇をすべて払拭することはできないから、注意深く、本棚の影を探っていく。
頼りになるのは、聴覚だ。
普段から視界をベールで遮っているので、その分、ジーナは耳に頼ることを知っていた。
室内で誰かが動けば、絶対に気付くはず。にもかかわらず……そこには、人の気配は一切なかった。
そうして、ゆったりとした足取りで室内の検分を終えた彼女は、一つの本棚の前に立ち止まった。
「もしかして、ここ……でしょうか」
それは、彼女がエピステ主義者たちとの会合に用いていた地下水路の入口。滅多に人が来ないこの場所の、誰も思いもよらない場所に隠された秘密の通路。。
「地下水路は、ほとんど迷路みたいなものですし、目的の場所に出ようと思ったら地図は必須。だけど……ここから逃げ出して、町のどこかに出るだけで良いならば、できなくはない」
地下水路の存在は、ミーアたちにとっては現状を打破する、起死回生の一手と言える。
「そんな都合の良い秘密の通路を見つけ出す偶然、あり得るでしょうか?」
それは、うっかり神の導きを信じてしまいたくなるぐらいの偶然にして幸運。
「まぁ、そんな偶然もあり得るでしょう」
ジーナはあっさり、思考を放棄する。
数多の偶然が支配するこの不条理な世界だ。偶然、崩落によって行く道の変更を余儀なくされたミーアが、偶然、その先で秘密の通路を見つけてしまうことも、あり得ないことではないのだろう。
「この世は不条理。すべては偶然によって支配される、とても不条理な世界。善人は、善人であるがゆえに突然の死から守られることはなく、悪人は悪人であるがゆえに命を落とすことはない。意味などない、何物にも縛られない、不条理で自由な混沌の世界」
歌うように言って、ジーナはそっと本棚の扉を開ける。
その奥、壁の一角。上手くはめてはあるようだったが、かすかに板がズレていた。
「ああ、やはり、ここを見つけましたか。偶然というよりは、あの崩落を見て、地下の空間に気付いたのか。生きる意志がそれを見つけわせたのか……。ふふふ、いずれにせよ、さすがは帝国の叡智ですね」
帝国を建て直し、レムノ王国の騒動をおさめ、サンクランドの暗殺劇を穏便に片づけたうえに、騎馬王国の失われた火一族を和解させ、巫女姫を捕らえ、ガヌドス港湾国が抱えていたヴァイサリアン族の問題も解決した……?
「よくよく考えると、とんでもない敵ですね……それを思えば、この地下水路を見つけるぐらいは、造作も無いことでしょうか。偶然見つけたのではなく、自らの強い意志と優れた知性によって、これを見つけ出したのでしょうね」
ジーナは斧を肩に担ぐと、のんびりした歩調で中に入った。
かつん、かつん、っと音を立てながら地下の空間へ。かすかに湿った空気は、通路を進んだところにある地下水路からの湿気か、あるいは、ここが地下水路だと知っていることによる、思い込みに過ぎないのか。
「帝国の叡智が知恵と意志により道を切り開いたというのなら、私もしっかり自分の意志で、それを叩き潰さなければなりませんね」
すべて混沌と偶然とが支配するこの不条理な世界において、唯一、確かなものこそが自らの意志だ。それこそが、彼女の存在を証明するものなのだ。
階段を降り切ったところで、ジーナは前方に目を向ける。
闇の中、灯りは見えない。
ここから先は、何度か曲がり角があるため、すでに、その先に行っているのだろう。もしかしたら、そのさらに先の水路まで出ているだろうか。
さて、そこからどこに向かうか……。上流に向かうか、下流に向かうか……。
「うーん、こんなことなら、エピステ主義者の方たちを、何人か残しておくべきだったでしょうね。いや、でも、それでは、こんなふうに直接対決を挑まれることはなかったか……」
とんとん、と斧で肩を叩きながら、ジーナは地下水路を進んでいく。
自らの選んだ先に、帝国の叡智と見える偶然があることに期待しながら。