第七十九話 しょせん、銀貨二枚分の忠義なので……
さて、ベルの部屋で待機を言い渡されたリンシャは、素直にベッドに腰かけて待っていた。
ソワソワと、ドアのほうに目をやりつつ、しばらくの間は、待っていたのだ。
けれど……。
「……遅いな」
待てど暮らせど、ミーアたちは帰ってこなかった。シュトリナもだ。
こんなことは、滅多にないことだった。今まで、一度だってなかったかもしれない。
このままここで待っているだけでよいのか、と少しだけ心配になってくる。
頭を過るのは、ベルがいなくなった時のこと。
自分は、その近くにいてやることができなかった。
なにもしてやることができなかったのだ。
深々と息を吸って、吐いてから。
「……やっぱり、気になる」
意を決して、リンシャは立ち上がり、部屋を出た。
ミーアの命令を破ることに、さほど良心は痛まなかった。
ミーアは、アベルへの気遣いから、クラリッサのことを秘密裏に解決しようとしているようだったが……基本的にリンシャにそこまで気を遣ってやる義理はない。
「……なにしろ、私には銀貨二枚分の忠誠しかないし」
まぁ、ベルがいなくなってからは、いろいろあったし、そもそも、その前からお給金としてはもっともらっていたので、実際には銀貨二枚しかもらってないということはないのだが……。
リンシャの中、その認識は変わることはなかった。
自分の忠義は、しょせん銀貨二枚分。
だからこそ、ディオンを待って事情を説明しろ、という命令を破って、部屋から出て行くのだって気にしない。
サラサラサラっと事情を記した置手紙を、シュトリナのベッドの目立つところに置くと、彼女は颯爽と部屋を後にした。
向かう先は、公都ドルファニアにおいて、絶大なる権力を誇る人物、ラフィーナ・オルカ・ヴェールガのところだった。
こんな夜に訪ねていくなんて不敬もいいところだが、この際、構っていられなかった。
「ミーアさまのお名前を出せば、悪いようにはならない」
ラフィーナとも知己を得ているリンシャは、そう確信していた。
実に、正しい認識だった。
「それに、どうせ、私は銀貨二枚分の忠誠しかないから……」
命令を忠実に守るほどの忠義は持ち合わせていないのだ。
堂々とした足取りで、廊下を進んでいった彼女は、途中、ヴェールガの衛兵に呼び止められた。要件を伝え待つことしばし。やってきたのは、モニカだった。
「リンシャさん……? こんな夜中にどうかなさいましたか?」
「申しわけありません。急ぎ、ラフィーナさまにお伝えしたいことがありまして」
「なるほど、明朝では間に合わない要件のようですね」
眼鏡の奥、モニカの瞳がスゥっと細くなる。
リンシャとモニカは、かつて、レムノ王国の革命事件を共に生き抜いた関係者だ。
立場は違えど、内戦一歩手前という重大な危機の中に、その身を置いてきた者同士、互いに奇妙な信頼感があった。
多くを尋ねることなく、モニカは踵を返す。
「どうぞ、こちらへ。ラフィーナさまにお取次ぎいたします」
すぐに、ラフィーナのもとに通してくれる、その判断の速さと、自らへの信頼を心地よく感じつつも、リンシャはその背を追った。
ノックの後、モニカが扉を開く。続いてリンシャも部屋の中へ。
っと、机について、書類に目を通していたラフィーナが視線を向けてきた。
「このような時間に申し訳ありません。どうしても、急ぎ、ラフィーナさまに、相談したいことがあってきました」
「構わないわ。ちょうど、仕事に一段落ついたところだったから」
そうして、ラフィーナは手に持っていた紙束を机の上に置いた。思わず、それに目を向けると……。
「捕らえたエピステ主義者の調書に目を通していたのよ。割と人数が多かったし、偽り事も混じっているようだから、なかなか読むのが大変で……」
そう言って、ラフィーナは深々とため息。それから、肩を回して……。
「きりがないから、気分転換に馬に乗って夜駆けにでも行こうかって思ってたところよ」
そう言って、悪戯っぽく笑った。
「そうでしたか……。馬に……え? 馬?」
聞き流しそうになって、ふと首を傾げる。
――お茶でも散歩でもなく、馬で夜駆けなんて、まるで、騎馬王国の民のようなことをおっしゃるのね……。
っと、リンシャの怪訝そうな顔に気付いたのか……ラフィーナは、はて? と首を傾げていたが……。直後、モニカがそっと耳打ち。それで、ハッとした顔をして……。
「……もちろん、その……冗談よ……? こんな時間に馬に乗るなんて、本気なわけないわ。もちろん……」
――なんだか、誤魔化そうとしてるような……。それに、いきなりでも、そんな冗談って思いつくものかな……?
貴族のご令嬢のうち、何人が、冗談で馬に乗って夜駆けに行く、なんてことを思いつくだろうか……? っと、首を傾げかけるリンシャであったが、深くは突っ込まない。
彼女は非常に空気が読めるのである。
「それで、どうかしたのかしら?」
小さく咳払い。それから、話を変えたラフィーナに、リンシャも小さく頷いて。
「実は、ミーアさまなんですけど……」
事の一部始終をラフィーナに伝えるのだった。
来週はお休みします。
また、2月3日から再開……予定です。