第七十七話 ベルは意外と頼りになる…………ほ……、本当だ……よ?
帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーンは、どちらかというと疑い深い人である。
絶対的な危機に対しても、安全な状況においても、常にギロちんを警戒し、しっかりと立ち止まって考える人間である。
けれど……そんなミーアが一切の疑念を差し挟まない者たちがいる。
アンヌ=忠臣・リトシュタインとルードヴィッヒ=クソメガネ・ヒューイットの二人……この二人の言葉に関しては、ミーアは一切疑わない。
言われたことを素直に聞こうと、深く心に決めているのだ!
……こと甘い物に関しては、若干、アンヌの言葉が耳に入らないことがあるような気がしないでもないが、それでも、基本的にアンヌの言葉をミーアが疑うことはない。
だから……。
「ミーアさま、しゃがんで!」
っという、差し迫ったアンヌの言葉に、ミーアは素直に従った。それが、ミーアの命を救った!
グッと膝を曲げ、その場にしゃがみ込む。っと、その頭上を、ぶおんっと重たい音を立てて……斧の刃が通り過ぎる。そのまま、ガツンと音を立てて、近くの柱にめり込んだ。
「なっ、なっ、ななっ!」
驚愕の言葉を口からこぼしつつも、ミーアはジタバタと手足を動かし、なんとか、その場から離れる。っと、すかさず駆け寄ってきたアンヌの手を借り、すぐに立ち上がる。
「あら、失敗してしまいましたか……。うーん、いまいち、これ、使いづらいですね……。ヴァイサリアンと言えば斧と思って持ってきたんですけど失敗しました」
刺さった斧を、ぐっぐっと引き抜こうとしつつも、あっけらかんとそんなことを言う。その女性に、ミーアは驚愕の視線を向けた。
「じっ、ジーナ・イーダさん……?」
「あら? 私が直接来たことが意外ですか? こんな人目につかない時間に、こんなおあつらえ向きな場所に、近衛も連れずに来たのですから、てっきり、私との直接対決をご希望かと思ったのですけど……」
辺りをキョロキョロ見回してから、ジーナは首を傾げる。
「正直、こんな見え見えの誘いに乗るのもどうかと思うのですけど、手駒をどんどん潰されてしまいましたし……。かといってこのまま撤退というのもシャクだったので、私自らが動くしかないかなと思ったんですよ」
よいしょ、っと斧を引き抜いて、それから、ジーナはふーっとため息。煩わしげに、ベールを取った。
その額に現れた刺青に、ミーアは思わず、口をあんぐーりと開ける。
――あっ、あの文様は、まさか……ヴァイサリアン族の……。
「思わせぶりに、私が追い付けそうな速度で逃げてるし、これは、なにか罠があるとは思ったのですけどね? ふふふ、私も息子と同じで、最終的には力に訴えたくなってしまうたちなので」
にこり、と笑みを浮かべるのは、初めて見る瞳……。その目元に、ミーアは見覚えがあった。大いにあった!
――あっ、この方……アレですわ。たぶん、カルテリアさんの関係者ですわ……。
認識した直後、ジーナがぶんっと斧を振るった。直後、ぱぁっとその周りに粉が飛び散って……。
「あら? これって……くっしゅんっ!」
直後、ジーナがくしゃみをする。一度、二度、三度。くしゃみは止まらず、苦しげに体を折るジーナ。
「ミーアさまお姉さま、こっちです!」
その隙に、ミーアとアンヌ、さらにクラリッサはベルのほうへと一目散に走った。
胸元に「小さな馬のお守り」をしまいつつ、ベルが声を上げる。
「すみません、ミーアお姉さま。せっかくリーナちゃんから預かってたのに、間違ってくしゃみ薬のほうを投げてしまいました」
ものすごーく棒読みな、こう、まるで敵に聞かせようとしているかのような、わざとらしーい言い方で。
それはシュトリナ・エトワ・イエロームーン直伝のブラフ。
ジーナの足を止めるための、渾身のブラフだった。
……そうなのだ、お忘れかもしれないが、ベルは帝国の叡智ミーアの跡継ぎとして期待を受けた皇女殿下なのだ。一応は、英才教育を受けているのだ。これは本当の話だ。
そうは見えないかもしれないが、親友シュトリナからは、護身用に、相手に激しいくしゃみを強いる薬を渡され(ちなみに、シュトリナの真似をして太ももに薬を巻こうとしたら、当人から「まっ! はしたない!」と怒られた。納得がいかなかった……)ついでにイエロームーン仕込みのちょっとした駆け引きを学んだ。猫っ可愛がりしてくるエメラルダからは、グリーンムーン流の外交術を、さらにさらにルヴィからはレッドムーン流の乗馬術を、そして極めつけに、サフィアスからは、ブルームーン家直伝の料理術(……無難かつ安全な)を教え込まれているのだ! 教え込まれているはず……なのだが…………うーん。妙だな?
ともあれ、まったくそうは見えないかもしれないし、身についてもいないかもしれないが、それでも、その身の内には一応は、いろいろな教えが刻み込まれているのだ……そうは見えないかもしれないが、きっときっとそうなのだ。
そんなわけで、ベルは自信満々にブラフを張った。
「投げる薬を間違えただけで、実は、お前を倒す薬はあるんだぞ、近づいてきたらやっちまうぞ!」と相手にわからせるために……。実に、こう……なんともわざとらしい言い方で。
そして、そのベルのブラフ……ではなく、そのわざとらしい言い方のほうが、ジーナの足を絡めとった。
「……私を倒す有毒な薬がある、と伝えれば、私の足を止められる、ですか。となると、私に抵抗する手段はない……っと考えるのが普通でしょうけど……。あんな言い方で騙せるとは、さすがに思わないでしょうし。となると、逆に私をおびき寄せたい? んー?」
元より帝国の叡智の罠を警戒していたこともあったのだろう。
全力で追ってくることはなかった。
ミーアたちは再び、元来た廊下を目指した。
「たっ、助かりましたわ、アンヌ」
ミーアは、アンヌのほうに目を向け、それから、クラリッサにも目を向ける。
「クラリッサ姫殿下も、大丈夫ですの?」
彼女は、怯えた様子ながらも、なんとか、コクコク、っと頷いた。襲ってきたのがジーナだったことに混乱しているだろうが、それでも、気丈についてきていた。
「もう少しの辛抱ですわ。大丈夫、きっと逃げ切れますわ、クラリッサお義姉さま」
どさくさに紛れて頼りになる義妹ムーブをしつつ、ミーアはベルのほうに目を向けた。
「ベルも助かりましたわ。なにを投げましたの?」
「えへへ。リーナちゃんから、悪い男と会ったら顔に投げつけてやれって言われてた、くしゃみ薬です。美味しくないお料理にかけるのにも使えるって言われてたんですけど……」
「あら、それは興味深いですわね。ここから脱出したら、ぜひ、試してみたいところですけど……なんにしろ、なんとかここを切り抜けて、皇女専属近衛隊と合流いたしますわよ! なにか、地図で思い出すことはございませんの? 秘密の通路とか、この際なんでも構いませんわ」
ミーアは背後を気にしつつ声を上げる。幸いなことに、ジーナはゆったりとした足取りで追いかけてきていた。まだ、時間的に余裕はありそうだ。
「んー、そう……ですね。あるとしたら、地下に降りる階段が一階のどこかにあるはずなんですけど……」
「地下に降りる階段……地下通路を通っての脱出も可能かもしれない、ということですわね」
「はい。でも……どこにあるのか……」
っと、その時だった。
目の前に先ほど跳び越えた、崩れかけの場所が迫ってきた。
来週のティアムーン帝国物語はお休みとします。
2月3日から再開予定です。