第七十四話 祖母と孫との形而上学的論争
帝国の叡智、ミーア・ルーナ・ティアムーンの存在は、クラリッサにとって、とてもまぶしいものであった。
弟アベルを変えた存在。帝国の叡智と称される、その賢き姫殿下は、唐突にクラリッサの前に現れた。
その成してきた功績を考えると、放たれる光の強さに、クラリッサは思わず気後れする。胸の内に生まれかけた羨望は、でも……すぐに霧散してしまう。
まぁ、そういう人もいるだろう、と呑み込むことができた。
自分では到底届き得ぬ才を持つ人……。クラリッサの身近にだって、そういう人はいたのだ。
ヴァレンティナ・レムノ――あらゆる才覚に優れたあの姉は、まさにそういう人であった。
だから驚くには値しない。同じ姫だとは言え、自分とは違う人なのだ、と納得することができたのだ。
そう、思えていた……はずなのに……。
「ミーア師匠ー」
どこか間延びした声でミーアを呼ぶ声。
帝国の叡智の弟子、オウラニアの存在が、クラリッサの世界観を大いに揺るがせた。
かつてやる気もなく、民に目を向けることもなく……ただ釣りだけをしていたという姫君。
その在り方は、どこかクラリッサに似ていて……そんな過去を持つ姫が、ミーアの指導を受けて、立派に役割を果たしているということが、あまりにも驚きだった。
――ミーア姫殿下の指導を受けて変わった。今度のパライナ祭で大きな仕事を任されてるなんて……。
噂に聞く海産物研究所は、この大陸から飢餓で亡くなる民をなくすための組織だという。
農産物の不作を補うため、普段から魚を池で飼っておき、いざという時には、それを食料とすることで、飢饉の発生を回避する。
それが実現できれば、それ以上に意義のあることもないだろう。
――民を安んじて治めるべしという、神聖典の言葉を体現するような仕組みだ。ミーア姫殿下だけでなく、そのお弟子さんのオウラニア姫殿下も、そんな大切な務めを担っているなんて……。
同じ王女なのに……大きな事を成そうと額に汗する二人。一方で自分は……と。
つい、そんなことを考えてしまって、クラリッサは眠れなくなってしまったのだ。
「私……何をしているんだろう……」
深い深いため息とともに、そんなつぶやきがこぼれ落ちる。
……まぁ、つまり、要するに何が言いたいのか、というとである。
ぬくぬく毛布にくるまって、当然、寝ているであろう時間に、図書館散歩をする、などという通常では到底考えられない(ミーア並感)ような行動を、クラリッサがしているのは、他ならぬ、ミーアとオウラニア師弟のせいなのであった!
さて、そんなクラリッサの内心など露知らず……。
疑心暗鬼に支配された、真夜中の鬼ごっこの鬼ことミーアは、シュシュっとクラリッサを尾行していた。
――薄暗い中を、迷いのない足取り。それに、封鎖されたドアが開くことを知っているご様子でしたし……。これはやはり、すでに何度か会合を行っていた可能性も捨てきれませんわね。ヴァレンティナお姉さまが来る時期の予想が外れていたのかも……。
まぁ、ミーアの予想は最初から最後まで完全に外れてはいるのだが……それはさておき。
クラリッサの入っていった扉を、音が出ないようにゆっくりと開ける。
重たい手応え、その後、じゃりじゃりとさび付いた音が、小さく響く。
気付かれぬよう細心の注意を払いつつ、扉を開放。即座に中に入って、近くにあった本棚の陰に身を隠す。
本棚には、ほとんど本が残されていなかった。置いてある本も埃をかぶり、本と本の間には立派なクモの巣が張られていた。
っと、その時だった!
「あっ、ミーアお祖母さま、動かないでくださいね」
小声でベルが言うのが聞こえた。直後、ベルはちょこんと背伸びして、ミーアの頭に手を伸ばした。
「はい、もういいですよ」
そう言った瞬間、ベルの手には……でっかいクモが握られていた! ワキワキとたくさんの足を動かして、実に元気なクモであった!
「なっ!」
ぞぞぅっと背筋に鳥肌が立つ。思わず、跳びあがりそうになるミーアであったが……。
「あっ、ミーアさま、御髪にクモの巣が……」
次いで、アンヌがシュシュっと歩み寄ってくる。そのまま、すっすとミーアの髪を梳き、クモの巣を取ってくれた。
「あ……ああ、どうもありがとう。お二人とも……」
それからミーアは、ベルのほうに目を向ける。ベルは、ん? っと不思議そうに首を傾げていた。
「ベル、その……虫を取ってくれたのは素直に助かりましたけど……素手で何のためらいもなくクモを捕まえられるというのは、帝国皇女としてはいかがなものかしら?」
「えー? そうでしょうか? 女王烏賊とそんなに変わらないのではないでしょうか? 足が多いところとか……」
「全然違いますわ! あれは干物にする前には柔らかいものですし……」
「それなら、月見蟹はどうですか? そんなに変わらないと思いますけど……」
「蟹は……」
ガヌドス港湾国にて、オウラニアから紹介された蟹なる食べ物を思い出す。
殻についた食べ応えのあるプリプリした肉が実に美味しかった。
料理前の見た目は、大きなはさみとたくさんの足があって……あの足が実に美味であった。甲羅の裏についたペースト状のものも、なんとも味わい深く、パンにでも塗って食べれば実に美味しそうだった。
ミーアはベルが持つクモを眺めながら……。
「蟹は……その、美味しいですし」
「クモだって美味しいかもしれませんよ? こんなに形が似てるんですから……」
その後、蟹とクモの形而上学的一致と味の相関関係について、孫娘と激しく議論を戦わせつつも、ミーアはクラリッサの後を追った。
広い部屋の奥には階段が見えた。Y時になっている階段を、クラリッサは躊躇いもなく登っていく。
「やはり、足取りに迷いがありませんわね。何度も来ているというのは、間違いがなさそうですわね」
階段を上っていくクラリッサの背中を静かに見つめ、静かにつぶやくミーアであった。