第七十三話 ベル・リテラシー
ミーアたちの目の前で、廊下に顔を出し、キョロキョロと左右を見回しているクラリッサ。それから、こっそり外に出ると、そーっとドアを閉める。実に、こう……怪しい!
「クラリッサ姫殿下……こんな時間に、いったいどちらに……?」
不審そうな顔でつぶやくミーアである。なにせ、普段の彼女であれば、熟睡している時刻である。こんな時間に、どこかへ行こうだなんて想像もできない。なんだったら、ベッドから出ることだって、まったく想像できない。だって、ちょうど、毛布の中が温かくなってきて気持ちいい時間のはずではないか! この時間に、部屋を出るなどあり得ない。絶対に……!
つまり……クラリッサは、通常では考えられないような、あり得ないことをしようとしているということだ!
そう気付いた瞬間、ミーアの背筋にゾクリと鳥肌が立った。
「こっ、これは、もしや……本当に当たりを引いてしまったのではないかしら……?」
自身の推理に自信はあったものの、まさか、今日がその日だとは思っていなかった。
でも、さすがにそんなことは……。半信半疑のまま、ミーアは後ろを振り返る。
「ともかく、後を追ってみますわよ」
ミーアの言葉に、ベルとアンヌが無言でコクリと頷いた。
息を殺し、足音を立てないように最大限の注意を払いつつ、一定の距離をおいて追う。
――方向的に、お手洗いというわけでもなさそうですわね……。かといって、外に行こうというわけでもないですし……。これは、どこに向かっているのかしら……?
そんなミーアの疑問に答えるように、ベルがこそっと耳元で囁く。
「図書館の廃棄された区画に向かってるみたいですね」
「……ほう、廃棄された区画ですの?」
問い返すと、ベルは嬉しそうに頷いた。
「これは、もしかすると、クラリッサ姫殿下は、こっそり夜に宝探しをしているのではないでしょうか?」
自信満々に胸を張り、満を持して冒険姫ベルが推論を披露する!
ミーア、しかつめらしい顔をして、おもむろに頷き……。
「……まぁ、それはさておき」
これをスルー! 顎を撫でながら己が推理を進める。
「廃棄された区画ということは、人の出入りがあまりないということですわね……。これは、ますます、秘密の会合には良さそうですわ」
ベルのもたらした有益そうな情報を素早く抽出、取捨選択する。
ベルリテラシーが完璧なミーアなのである。
「ということは、もしや、その区画に、秘密裏に出入りできる隠し通路などがあるのではないかしら?」
「あっ! それでしたら、壁際の本棚とかが怪しいと思います。くぐれそうな扉が付いた本棚とかだと、開けた奥の壁が外れて通路が出現するとか、あるあるです」
遺跡探索あるあるを披露するベルを一瞥して……。
「なるほど。ベルの勘はアテになりそうですわね。覚えておきますわ」
ミーア、これをスルーせず! 参考になりそうな情報として記憶にとどめておく。
存分にベルリテラシーを発揮するミーアなのであった。
「ということは、クラリッサ姫殿下は、今日、何らかの方法で連絡を受けて、秘密通路から侵入してきたヴァレンティナ王女と会おうとしている、と……。もしくは、もうすでに何度か、会っている可能性も考えられるかしら? いや、ヴァレンティナ王女が脱獄した日から逆算すると、さすがに、そんなに早くは来られないか……ううむ……」
目の前、今まさに封鎖の札がかかったドアを開けるクラリッサを見ながら、ミーアは首をひねるのだった。
さて……では、実際のところは、どうであったのか……?
はたして、ミーアの推理は当たっていたのか、というと……。
――眠れないから少し散歩にと思ったけれど……。やっぱり、人のいない図書館は、静かで落ち着くな……。
大外れであった!
的にかすりすらしていなかった!
しょせんは、ミーアの推理である。甘い物も風呂もなければ、この程度なのだ。
それはさておき、クラリッサは神聖図書館に来て以来、ずっとプレッシャーを感じていた。
レムノ王国で分不相応な仕事を任された日から、未経験の連続だった。
国どころか、城を出たことすら、数えるほどしかないクラリッサである。公務も簡単なものしか任されていなかったのに、いきなり国の代表になるなど、戸惑いしかなかった。
道中も、この神聖図書館についてからも、眠れぬ夜が続いた。
今は使われていない図書館の区画を見つけたのは、そんなある日のことだった。
どうしても、一人になりたい時があった彼女は、初日に案内されなかった区画に足を踏み入れたのだ。
薄暗いその区画は、一切の人の気配がなく、何冊か、ボロボロの本が置き忘れられているばかりの寂しい場所だった。
――なんだか、落ちつくな……。
まるで、人々から忘れ去られたような場所、誰からも期待されていないような、寂しいその場所……そこは、まるで、クラリッサ自身のような場所だった。
「誰も私になど期待していない……。アベルが一緒に来ているのだから、期待されていない私が失敗してもなにも問題ないはず。むしろ、最後の最後はアベルがレムノ王国の代表として立ってくれるでしょう。だって、王子なんだから……」
そのほうが自然だ。栄光を受けるべき王子が共に来ているのだから、自分は失敗していい。なにもしなくたっていいんじゃないか……と。
そう考えれば、気持ちはだいぶ楽になった。
「私は、期待される立場にはないのだから……」
それは、彼女にとっての大いなる安息であり、胸に疼き続ける絶望でもあった。
そんな彼女の日々に変化が訪れたのは、つい数日前のことであった。