第七十一話 真夜中の鬼ごっこ
ジーナ・イーダは、図書館の自室にいた。遠く、罠を張った建物の辺りで、チカチカと光が瞬くのを見て、小さく笑みを浮かべる。
「ふふふ、二人は入りましたか……」
シュトリナとディオンが罠にかかったとの知らせに、思わず笑みがこぼれてしまう。
「ま、上手くいくかどうかはわかりませんけど、もし無事に切り抜けたとしても、ここに戻ってくるまでには時間がかかるでしょう」
作戦成功の報告までは待たずに、ジーナは踵を返す。
「さ、それでは、参りましょうか」
スキップでも始めそうな、軽い足取りで、ジーナはミーアの部屋へと向かう。
「失礼、どちらへ?」
そんなジーナに話しかけてくる者がいた。
まるで立ち塞がるようにして、ジーナの前に現れたのは、二人の男たち。
鋭い目つき、隙のない立ち居振る舞い。図書館の中だから、さすがに剣を帯びてはいないが、代わりに長い木の棒を持っている。
皇女専属近衛隊の手練れを前に、ジーナは特に緊張することもなく言った。
「ああ、申し訳ありません。夜分のこととは思いましたけど、ミーア姫殿下に急ぎお話ししたいことがございまして」
と言いつつ、ジーナは手の中、こっそりと用意する。
目の前の近衛たちを一撃で切り裂ける暗器を……。
――ふーん、腕は立ちそうですけれど、まぁ、この程度ならば私でも……。
っといつでも襲い掛かれるよう足に力を溜めるが……。
「申し訳ありません。ミーア姫殿下は、今、少し出かけておられまして……」
「あら……? そうなのですか?」
思わぬ答えに、即座に体の力を抜く。
「でも……、こんな時間に、ですか?」
「ええ。ここは神聖図書館の中で、安全が確保されていますから。親しいご友人もいらっしゃいますので、夜の時間に話をなさることもあるのではないでしょうか」
それから、護衛の男は優しい笑みを浮かべた。
「できるだけ、姫殿下には、そうした時間は大切にしていただきたいと思っているのです」
「なるほど。ミーア姫殿下は、良き臣下に恵まれていますね」
明るい口調で返しつつも、ジーナは思考する。
――これは、逃げられたということでしょうか? それとも、もしや、誘われている? 直接、対峙することを狙っているのでしょうか?
「あの……?」
ジーナの沈黙を気まずく感じたのか、困り顔の護衛に、ジーナは静かに首を振った。
「いえ、そういうことでしたら、仕方ありません。私も少し焦り過ぎましたから、明日の朝にでもまた来させていただきます。ご機嫌よう」
そう言って、暗器を使うことなく、さっさとその場を離れる。
ミーアが部屋にいないのであれば、あえて戦いの危険を冒すこともなし。
――むしろ、意味深な目撃者として使えるかもしれませんね。第六資料管理室の室長によって、帝国皇女ミーアが害された可能性を匂わせる……ああ、素敵! それは、とても素敵な混沌の香りがしますね!
さぞや、帝国とヴェールガとの間がこじれるだろう。
皇帝は挙兵するだろうか?
ヴェールガは、非を認めるだろうか? それとも、蛇の存在を今さらになって明かすだろうか?
「あれれ? それって、言い訳臭くない?」などと、他の蛇が突けばさらに荒れるだろう。
――帝国の叡智が築いた繋がりと、中央正教会が築いた連帯との戦い……ふふふ、それってとっても楽しそう。ルシーナ司教やユバータ司教は、どちらにつくのでしょうか? 聖女ラフィーナはどうするでしょうか……? あら? これって、とっても楽しい混沌になりそうですね。
ジーナ・イーダは、上機嫌に口元に笑みを浮かべる。
――ああ、素晴らしい。これこそが私の生きる意味でしょうね。
彼女は、燻狼のように悪事に喜びを見出してはいなかった。
彼女の価値観にとって、善悪の行為に差はないのだ。善悪を決める神がいないのだから、世の中には善も悪もない。
では、なにが意味を持つのか? なにが、彼女にとって価値を持つのか?
さまざまな偶然が支配する不条理な世界の中で、自分自身が、そこに存在しているということ……。それを実感し、証明することこそが、彼女にとって価値を持つものだった。
そのためにこそ、彼女は生きているのだ。
ただ、自分自身で決め、自分自身の意志で行うことが大切だった。
偶然の中に、自らの意志で必然を生み出す。それだけが、自身の存在の証明であった。
善悪はない。
それを決める神はなく、他の人間が決めた善悪の基準にも、服する気などない。善悪になどこだわることなく、ただ、自分で決め、自分がしたいように行動することにこそ意味があるのだ。
――混沌への流れを滞らせる、帝国の叡智を廃してやりましょう。小川に偶然生じた天然の堤防を、他愛なく壊すように、歴史を動かしてやりましょう!
足取り軽く、ジーナは歩き出す。幼い頃、鬼ごっこに興じた時のような楽しさに心を弾ませながら。
一方、ミーアとベル、それにアンヌの三人は、こっそり息をひそめつつ、クラリッサの部屋のほど近く、廊下の角までやってきた。
「ミーアお姉さま、ここで見張るのですか?」
「ええ、そうですわ。さすがにヴァレンティナお、うじょも、図書館内に入ってくるのは難しいでしょうし……。クラリッサ姫殿下がご自分で会いに行くのだと思いますわ」
「……あの、もしかして、今夜一晩、ここで見張るのですか?」
眉をひそめるベルに、ミーアは深々と頷く。
「ええ。まぁ、眠ければ寝ていても構いませんわよ……?」
ミーアとしては、ベルが探検とか無茶なことをしなければいいわけで……。ここで居眠りしてもらっても一向に問題ないのだが……。
「いえ、夜のために昼寝をしておいたので、問題ありません」
ビシッと胸を張るベルに、こっ、こいつ、夜通しで図書館探検をするつもりだったのか!? と戦慄を覚えるミーアであった。
そんな愉快な孫と祖母のやり取りは、さておき……。
――まぁ、でも、ほどほどのところで切り上げても良いかもしれませんわね。実際のところ、絶対に今日来るという保証はないのですし……。
ミーア自身、自分の推理には自信があるものの、それでも、その日が今日とは限らない。明日か明後日である可能性だって十分にあり得るわけで……。
などと考えていた、まさにその時だった。
がちゃり……と、音が鳴り……。
「……えっ?」
部屋のドアが開き、クラリッサが出てくるのが見えた。