第六十九話 あの日の呪い2 呪いを解くは、乙女の覚悟
「ちょっと暗い……灯りを持ってきてよかった」
つぶやきつつ、シュトリナがランプをつけた。
ぼんやりとした明かりによって、見る間に闇のベールが剥がれていく。
明らかになった室内の光景に、シュトリナは小さく首を傾げた。
「ここは……書庫?」
目に入ってきたのは、いくつも並んだ本棚と、そこに収まる古びた本の数々だった。
「これは、当たりってことかな?」
「どうなんだろう……? ダミーかもしれないけど、中身を見てみないことには……」
手近な本に、慎重に手を伸ばすシュトリナ。万が一、なにかの罠があった時のために、ディオンは、その隣で警戒する。
幸い、本はスムーズに取ることができた。罠が発動する、などということもなかった。
ページを開くと、端から端までびっしりと文字が書き記されていた。見ているだけで頭が痛くなりそうな、その本を見つめ、シュトリナは眉をひそめる。
「読めそうかい?」
「かろうじて。古代帝国語の本みたい……。でも、読むのに時間がかかりそう」
途方に暮れた様子で、シュトリナは、本棚に目をやった。
「これ全部が地を這うモノの書の写本ということはないと思うけど……。もしかしたら、本物を隠すために、こんなふうにしているのかも……」
「木を隠すなら森の中、というやつか……」
「ポツンと本物だけ置かれているよりも、あるいは、どこかに隠してあるよりも、無駄な本をたくさん置いておいて、ただの物置に見せたほうが誤魔化せると思うから」
大切なものを隠す金庫を、無価値なものを詰め込んだ物置とカモフラージュしているのではないか……と。シュトリナには、そう見えた。
「神聖図書館から抜かれた本が、もしかしたら、この中に隠されてるかもしれない……」
つぶやいてから、シュトリナは辺りを見回した。
「おいおい、まさか、これを全部チェックするつもりかい?」
呆れるディオンに、シュトリナは、思いつめたような顔で頷いて……。
「全部は無理でも、ある程度は調べないと……」
焦燥感に背中を押されるように、シュトリナは本棚の周りを歩き回った。
……シュトリナは……気付くべきだった。
読むのに時間がかかる本が、なぜ、そこに置かれていたのか。
それが罠であったとしたら……そこにはどのような意味があるのかを……。
一方で、ディオン・アライアは、本を流し読むシュトリナを観察していた。
――少し逸っているみたいに見えるな。これは止めるべきなんだろうけど……。たぶん、例の大切な友人に危機が及ぶ可能性を考えているんだろうな……。やれやれ。
ため息を吐きつつ、周囲の気配を探る。今のところ、自分たちに向けられる殺気はなさそうだった。
――まぁ……そうだな。もしも相手が危険な暗殺者だというのなら、早めに潰しておいたほうがいいというのは一理あるか……。相手の尻尾を掴めそうならば、無理をするだけの価値は、確かにある。
その判断に驕りはなかった。無論、油断もありはしなかった。
ただ一つだけ……彼が気付かぬ要素が、帝国最強の判断さえも鈍らせた。
それは彼自身が意識していなかった、かすかな傷。その心に、知らぬ間についていた小さな小さな傷。
多くの者が誤解していることではあるが……ディオン・アライアは心を持たぬ冷血漢ではない。
ミーアなどは未だにそう思い込んでいる節があるし、なんだったら、こいつギロちんの化身なのでは? と思うこともしばしばあるのだが……。実はそうではないのだ。
少なくとも、彼は仲間が死ねば悼む心を持っている。それなりに傷つきもする。戦友の死には酒の力を必要とするし、別の時間軸においては、部下たちのために修羅に身を堕としたことだってあるのだ。
そんな彼にとって、ベルの死は、やはり、それなりに衝撃的な出来事だったのだ。
表には出さないまでも、犯人に対しての怒りはあったし、ベルを悼み、悲しむ気持ちもあった。それは、ベルが再び目の前に現れた今であっても、変わりはないことだった。
だから……その時の傷は、彼の中で、確かに影響を及ぼしていた。
彼自身、気付かぬことではあったのだが……、致命的に、その判断を惑わせた。
それはまるで、あの蛇の巫女姫が放った呪いのようなものであった。帝国の叡智に向けて放たれた呪いが、帝国最強の騎士、ディオン・アライアの直感を鈍らせた。
……気付いた時には、すでに遅かった。
「ん……なんだ……?」
その身に、蛇のように絡みついた微かな違和感。
「これは、なにか……妙な……」
つぶやきと同時に、膝が折れた。
「これ、は……?」
舌がもつれる。
体に、力が入らない。
こんなことは……初めてだった。
「え……? ディオン・アライア、いったい、なにが……ぁっ、くっ」
ぼやけた視界の中、シュトリナの身体がふらつくのが見えた。そのまま机に手をつき、なんとか堪えているが……その瞳は驚愕に見開かれていた。
「なに……これ……は? いったい……?」
シュトリナは困惑していた。
指先に痺れ……。視界がぼやけ、体に力が入らなくなりつつあった。
イエロームーン家に生まれた彼女は、毒や薬にある程度の抵抗力を持っている。だからこそ、逆に気付くのが遅れた。
「そん……な、毒に……気付かなかった? いいえ、毒じゃないから気付かなかったって、こと……?」
蛇は、互いに情報を共有しない。国を滅ぼすノウハウも、毒の知識も……。
だからこそ、シュトリナは知らなかった。
臭いもなく、色もなく、味もなく……空気に混ぜ合わせることで、相手を痺れさせる『毒の霧』があるということを……。
それはイエロームーン公ローレンツや、元風鴉のビセットですら知らなかったもの。蛇の秘薬中の秘薬、秘技の中の秘技。
ただ『相手を痺れさせるだけ』の薬……。
相手を殺すことも傷つけることもなく、ただ、動きを奪うためだけの薬。
必殺致命の第二撃へと繋げるためだけの、第一撃。
「くそ……油断した……ってことか……。この僕としたことが……」
ぼやけた視界の中、ディオンが懸命に身を起こし、剣を抜くのが見えた。けれど、その手から、するりと、剣が滑り落ちる。
――手に力が入らない……。これじゃ、剣を振るうことも、殴り合うことも、たぶん無理……。ある程度、抵抗できるリーナでもこれなら……この人は……。
机に掴まり、なんとか立っているシュトリナとは違い、ディオンは膝をつき、立ち上がることができなかった。
この状態で戦え、というのは、恐らく不可能だろう。
してやられた悔しさに、シュトリナは、ギリッと歯噛みする。だが、すぐに決断する。
残された時間は、あまりにも少ない。
「ディオン・アライア……聞いて……今から……短い時間……ほんの、少しの時間だけ……あなたの体の機能を、元に戻す……」
精神力を絞り出し、なんとかディオンのもとへと歩み寄る。ゆらり、ゆらり、体が左右にぶれるが、構ってなどいられなかった。
シュトリナは、基本的には優秀な少女だった。
彼女には、確かに焦りがあった。
友の死によって刻み込まれた傷は、その焦りを致命的な呪いへと変じた。それは、彼女の判断力を鈍らせるほどに、重篤なものだった。
されど……、そう、されどなのだ。
彼女は理解していたのだ。自身の焦りの原因……、相手が恐るべき巫女姫、ヴァレンティナと同等に、警戒すべき相手であるという、その感覚を……。
だからこそ、無策で踏み込むような、蛮勇を振るうつもりは毛頭なかった。
この地に住まう混沌の蛇に秘薬があるように、帝国四大公爵家が一角、イエロームーン公爵家にもまた、秘薬があるのだ。
長き帝国の歴史の中、幾度もの陰謀劇にその身を晒した一族を守りぬいた、とっておきの秘薬が。
そう、シュトリナは……罠に踏み込む覚悟を決めたのと同時に、自らが毒を食らうことをも覚悟していたのだ。
「なん……だって?」
ディオンがうつむいたまま、目だけを向けてくる。
「薬が、ある……。どんな毒の効果でも……一時的に、無効化、する薬……」
厳密にいえば解毒ではない。あくまでも、それは先延ばしのための薬。本来であれば、その間に、解毒薬を用意するためのもの。
そして、ある事情から……エイブラム王の時には、使うことができなかった薬でもある。
事情が、というか、飲ませるのに覚悟がいるというか……。
せっかく、そんな覚悟を決めたシュトリナであったのだが……ディオンは苦しげな口調で言った。
「それ、なら……それ、は……君が飲むといい」
その答えに、ヒクッと頬が引きつる。
恨みがましい目で見れば、ディオンは目元にだけ、かすかに笑みを浮かべていた。
「君のほうが、痺れ、が薄そうだし……。逃げ、ること、ぐらいはできる、だろ?」
途切れ途切れに、言葉を続ける。
「あいにく、と……僕のほうは、もう、薬を飲むことも……むっ……」
ごちゃごちゃ、うるさかったので――シュトリナはそっと、その口を塞ぐ。
自らの唇を重ねることによって……。
思ったより、柔らかな感触に頭が熱くなりかけるが……あえてなにも考えないようにして、シュトリナは奥歯を噛みしめる。
ガリッと、なにかが砕ける感触。と同時に、口の中にトロリとした薬が溢れる。
イエロームーンの秘薬。それは、自身の身を守るための保険。毒の効力を先延ばしにし、その間に解毒薬を用意するための薬であった。
ゆえに、普段、それは己が奥歯に仕込んであるのだ。
口の中の薬を、余さずディオンの口へと流し込んでから……シュトリナは唇を放した。
突然のことに目を見開いているディオンに……、
「私の……はじめてを、あげたんだから……責任……」
言えたのは、そこまでだった。体から力が抜けて、目の前が見えなくなっていく。耳の奥、遠くから……。
「……そいつは、責任重大だ」
帝国最強の騎士の、滅多に聞けないような、どこか困った声に、わずかばかりの満足感を覚えながら……。
シュトリナの意識は深い闇へと堕ちていった。
いつからティアムーン世界には異世界恋愛さんがいない、などと錯覚していたんだい?