第六十五話 波の兆候
大きな波が生まれようとしていた。
否……水面下ではすでに大きな流れ、うねりは生じ始めていたのだ。それが、波間にぷかぷーかと浮かぶ、ミーアのもとに訪れようとしているのだ。
その日、ミーアは意気揚々と廊下を歩いていた。
ずんずん、ずんずん、歩いていた。
その顔には、自信が満ち溢れていた。
そうなのだ。ミーアは、ついに見つけたのだ! 突破口を……!
クラリッサを『お義姉さま』と呼ぶための、その道を切り開く、突破口を!
その……少々、目的が変わってしまっている感がしないではないが、まぁ、それはともかく。
――オウラニアさんが良いヒントになりましたわ。好きなもので釣って突破口を開く。そう、わたくしとクラリッサお義姉さまとの共通点は、お料理ですわ!
アベルが昔言っていたのだ。母や姉が料理を作ってくれた、と。
レムノ王国では貴族の女性であろうとも、料理を作るのが普通である、と。
「ああ、我ながら、実に迂闊でしたわ。料理の熟練者たるこのわたくしが思いつかなかったとは……」
なぁんて、誰かさんが聞いたら卒倒しそうなことをつぶやきつつ、ずんずん、ずんずん、廊下を歩いていくミーアである。
「アンヌ、今日は、あなたにも会話に参加していただきたいですわ」
「でも、よろしいのでしょうか? 私が入っていってしまっても……お邪魔なんじゃ……」
ちょっぴり心配そうな顔をするアンヌに、ミーアはニッコリ笑みを浮かべる。
「もちろん大丈夫ですわ。みんなで作ったあの馬パンの話とか、ぜひ、してあげていただきたいんですの」
ミーア最大の成功体験、ミーアがスキル「り、料理?」を会得するに至った、あの馬サンドイッチ。
……ついでに、某従者が『苦労人』の肩書をも得てしまった、あの、馬サンドイッチ!
それを起点にして、クラリッサの心を開こうというミーアなのである。
そんなミーアの作戦が、もしも実行に移されていたとしたら、もしかしたら、苦労人たちの苦労も少しは軽減されていたかもしれない。
いや、あるいは……料理会が頻繁に開かれた挙句、クラリッサが、ミーアの暴走を止めることができずに、より危険な事態に陥っていただろうか。
ともあれ、そんなミーアの作戦は、思わぬ介入により、先延ばしを余儀なくされてしまう。
「ああ、ミーア姫殿下、こちらにいらっしゃいましたか」
廊下の向こう側から、ミーアに駆け寄って来る者がいた。
「あら……ジーナさん。ご機嫌よう」
「ご機嫌麗しゅう、ミーア姫殿下。お探ししておりました」
挨拶もそこそこに、ジーナは言った。
「あら、わたくしを探して? なにかございましたの?」
「ええ。ぜひ、お話ししたいことがあったのです」
それから、そっと声を潜めて……。
「ラフィーナさまからお聞きになりましたか? エピステ主義者のこと」
突然の話題に、ミーアは首を傾げた。
「はて……? なんのことかしら? 特にこれといったことはお聞きしておりませんけれど……」
一応は、ハンネスのほうから、エピステ主義者の話は聞いていた。このヴェールガの地に長く潜む蛇。パライナ祭を嫌う者。中央正教会の異端。そのような情報を頭に思い浮かべながら……、
「ああ、まだでしたか……。実は、ラフィーナさまの指示を受けた兵がエピステ主義者たちの捕縛に成功したそうなんです」
「まぁ、そうなんですのね。そういえば、ここ数日、ラフィーナさまがお忙しそうにしておりましたけど……。もしや、そちらの後始末がお忙しいのかしら?」
「そのようですね。尋問した結果、なんでも、彼らは、この神聖図書館を焼き討ちにしようとしていたということでしたし……」
唇に人差し指を当て、ジーナは小首を傾げた。その顔を覆うベールが、ゆらりと、艶やかに揺れる。
「それを予想されたラフィーナさまが、手勢を送られたのだそうですけれど、さすがはラフィーナさまですね」
「まぁ……焼き討ち……それは、恐ろしいですわね」
そう返しつつ、ミーアは思わず考えこんでしまう。
――その者たちが、神聖図書館に放火する真犯人ということなのかしら? ということは、これで、事件は解決ということになる……? でも……。
さながら、真実を見極めんとする知者のごとき顔で、顎に指を当てつつ唸る。
――ルードヴィッヒは、クラリッサ姫殿下が犯人であると断言した。とすれば、まだ、ヴァレンティナお義姉さまからの働きかけはあると考えるべきかしら……?
「……もしやミーア姫殿下も同じように、この神聖図書館への攻撃を予想されていたのですか?」
突然の問いかけに、ミーアは注意をジーナのほうへと戻す。
「あら? なぜ、そう思われますの?」
「いえ、ミーアさまと一緒に来られたご令嬢と、護衛の騎士さまが、ここ数日、いろいろと動き回っているとお聞きしたものですから……」
「ああ……別に、そういうわけではありませんわ。ただ、彼女たちには適した仕事をしていただいているだけですから……」
「イエロームーン公爵令嬢と、ディオン・アライア殿に適した仕事、ですか……」
「ええ。あのお二人にしかお願いできない仕事ですわ」
ミーアは深々と頷く。
――わたくしにまつわるあらぬ噂を、上手いこと払拭してくださっているとよろしいのですけど……。
ミーアは、黄金の巨大な像に立ち向かう帝国最強の騎士と、両手に怪しげな薬瓶を持って立つシュトリナの姿を想像する。
――頼みましたわよ、お二人とも。
そんなことをつぶやくミーアは気付いていなかった。
ジッと自身のほうへと視線を向けている、ジーナのことに。
来年もよろしくお願いいたします。
そういえば、昨日はスピンオフのコミックスも更新されていました。
ティオーナとリオラのお話なので、もしもご興味がありましたら、年越しのお供にどうぞ。




