第六十四話 幼心を忘れることなく
今週は年末年始ということで、ミーアは満月団子の食べ過ぎで動けません。なので出番が少ないです。
ヴェールガ公国は、大規模な軍を持たない国である。
しかし、一切の武力を持たないというわけではなかった。
どのような国においても賊は出現するもの。特に、ヴェールガ公国では多くの巡礼者を迎え入れている。良からぬことを企む者たちにとっては、非常に侵入しやすい国となっている。そのため、治安維持を担う最低限の武力は必要であった。
ヴェールガ公爵に与えられた剣、その武力を担うのは、騎士神官と呼ばれる者たちであった。武芸に優れた神官の中から、神の任命を受けた者たち、その数は総勢百八人。
普段は各地の各教会で神父として振る舞いつつ、常に、己を鍛えることを忘れず。有事の際にはその腕を存分に振るう、盗賊程度では到底太刀打ちできないの達人たちだ。
神殿内の一室で、公務にあたっていたラフィーナのもとに、壮年の騎士神官が訪れたのは、正午の鐘が鳴りやまぬ頃であった。
「失礼いたします。ラフィーナさま。騎士神官ダニエル卿がいらっしゃいました」
モニカに連れられて入ってきた男、騎士神官ダニエルは、ドルファニアの治安維持に長く携わっている人だった。齢五十歳、鼻下の髭を綺麗に切り揃えた彼は、会えば無意識に背筋を伸ばしそうになるような、極めて厳格な雰囲気をまとった人だった。
ちなみに、ラフィーナが生まれた時からの顔見知りだったりもする。
「お疲れさまです、ダニエル卿」
涼やかな笑みを浮かべて挨拶するラフィーナに、彼はビシッと背筋を伸ばし。
「ご機嫌麗しゅう、ラフィーナさま」
胸に手を当て、騎士の礼を取る。騎士神官の中の騎士神官と呼ばれる男である。その礼節は、完璧の一言で……。
「どうぞ、そのようにかしこまらずに。私のことは、いつも通りダニエルおじちゃまと……」
「ダニエル卿……それで、首尾はいかがかしら?」
ヒクッと頬を引きつらせつつ、ラフィーナは言う。その言葉を受け、ダニエル卿は一切、表情を崩すことなく、ビシッと厳格な雰囲気のまま、話を続ける。
「いただきました情報に基づき、エピステ主義者の拠点と思わしき建物を急襲、制圧に成功いたしました。ラフィーナさまの読み通り、神聖図書館を焼き討ちしようと画策していた模様で、相当量の油や強い酒などを買い集める手はずになっていたようです」
先日、ラフィーナは、林馬龍を供として、いくつかの商人の邸宅を訪れていた。彼らはいずれも、公爵家や神殿の御用聞きの商人たちであった。
油にしろ酒にしろ、儀式には必要不可欠なものだ。それゆえ、商人たちは、すぐに情報を提供してくれた。
曰く、ちょうどつい最近、強い酒を買い求めた者たちがいるからよく覚えている。
儀式に使うものとは違う、少し珍しい油を求める者たちがいたので、印象に残っている。
それは、商人たちにとっては些細なことであった。怪しげな武器を求める集団であったり、毒を買い求めた、などという話であればまだしもである。
――こちらから問わなければ、情報は上がってはこなかったかもしれない。危ないところだったわ。
小さく頷きつつも、ラフィーナはダニエルのほうに目を向ける。
「それで、被害は?」
「はっ! こちらにけが人はなし。下手人たちも、非戦闘員がほとんどであったため、抵抗も最低限。戦闘らしい戦闘は起こりませんでした。まぁ、殴り倒しましたから、何人かは痣ぐらい作っているかもしれませんが」
「そう。それはなによりだったわ」
ラフィーナは小さく息を吐いた。
少数精鋭である騎士神官に、万が一にでも被害が出れば一大事だ。それに加えて、敵にも被害が出なかったことに、ラフィーナは安堵していた。
――ミーアさんが、できる限り人死にを出さないように立ち回っているのだから、私もそれに倣うべきでしょう。そして、願わくば……。
小さく祈りを捧げてから、自分もずいぶんと変わったものだ、と、ラフィーナは思わず苦笑する。
敵にすら改心の機会を望み、慈悲を与える……それは、かつての自分にはなかったであろう発想だった。
「しかし、神聖図書館に放火をしようとは、恐ろしいことを考え付くものですな」
髭を撫でつつ、眉間に皺を寄せるダニエル卿に、ラフィーナは頷いてみせる。
「ええ。エピステ主義者にとって、神聖典の正しさを保証する神聖図書館は天敵と言える存在でしょう。その釈義を左右する資料もろとも燃やしてしまいたいという気持ちはわからないでもないわ……。それに、パライナ祭は、彼らにとっては許しがたい行事だということですし……」
それから、小さく首を傾げて……。
「いずれにせよ、彼らに聞けば、事の真相は明らかになるでしょう。ひとまずは、これで事件は解決ということになるのかしら……」
理屈で考えれば、そのようになるはず。けれど、なぜだろう、ラフィーナの中に、漠然とした不安が残っていた。
まだ、危機は去っていないような……そんな不安が。けれど、それがなんなのか、具体的に言葉にすることはできずに……。
「パライナ祭は、すべての国々に関係する重要な行事です。これからも、騒乱を起こそうとする者は現れるでしょう。くれぐれも、警備は気を抜かないようにね」
それだけを指示する。ダニエル卿は神妙な顔で頷き……。
「心に刻みましょう。それはそれとして……」
そうして、わずかに声をひそめる。
「あら? どうかしたのかしら?」
なにやら、秘密の相談事の雰囲気を察したラフィーナは、そっと顔を近づける。っと、ダニエル卿は大真面目な口調で……。
「例の、騎馬王国の馬龍殿との仲はいかがですか? 進展などは?」
「…………はぇ?」
思いもかけない問いかけに、ぽっかーんと口を開けるラフィーナに、ダニエル卿は表情を崩さずに続ける。
「ラフィーナさまは、昔から少々潔癖に過ぎるところがありますでな。実は、我が妻ともども、少々、心配していたのです。ご結婚では苦労なさるのではないか、と。ですが、あの大らかな青年であれば問題ありますまい。オルレアンさまも、さぞやご安心なさっておられるでしょう。ははは」
「なっ……なっ! なっ!」
混乱のあまり、モニカのほうに目を向けると、困り顔で微笑まれてしまう。
「私も、お世継ぎをこの腕で抱き上げられる日が来るのか、たいそうな不安を覚えておりましたが、一安心しております」
「なっ! なにを言ってるの、ダニエルおじさ……! あっ……」
思わず……幼き日の心持ちに戻ってしまうラフィーナなのであった。