第六十三話 殺意なき暗殺
稀代の英雄というのは、極めて理不尽な存在である。
時に王の盾として、時に剣として、時に秩序の絶対的な守護者として……。彼らは幾度も、立ち塞がる。
彼らを剣で倒すことは容易ではない。槍でも斧でも同じこと。
それどころか、弓矢や火、毒ですら、その者たちを殺すことはままならない。
なぜなら、彼らは恐らく、常人にはない感覚を持っている。
彼らは、その目で、耳で、鼻で、空気の味からでさえ、危機を察知する。
肌のピリつく感覚、周囲に満ちた違和感、向けられた視線……ありとあらゆる感覚を研ぎ澄ませて攻撃に対処する。
しかし、それ以上に厄介なのは、彼らが殺意を敏感に感知することなのである。
仮に、見えず、聞こえず、臭いもなく味もない、そのような殺害方法があったとしても、彼らはそれを回避するだろう。なぜならば、彼らは殺意の残滓を決して見逃さない。
優れた戦士とは、常人が持ち得ない、見えない敵の殺意を感知する感覚器を持ち合わせた者であると言えるだろう。
ゆえに暗殺を試みる際には、彼らのその特異な感性を回避する必要がある。
すなわち、目に見えず、聞こえず、臭いも味もしない方法で、さらに、殺意の残滓すら察知させずに攻撃することができれば、いかに優れた戦士であったとしても、殺すことができるだろう。が、そんなことは現実的には不可能である。一切の殺意なく相手を殺すことは、常人には不可能であるからだ。
それゆえ、暗殺者は考え方を変える必要がある。
第一撃は察知されないために『殺すためのもの』であってはならない。
『傷を負わせるもの』であってもいけない。
『確実な致命傷に至る第二撃へと繋げるためのもの』として考えるべきなのだ。
では、第一撃が達成すべき目標とは何か? それは……。
地を這うモノの書 暗殺の章より
ジーナ・イーダは古き蛇であった。
その長き人生において、彼女は何人もの蛇に出逢ってきた。
そんな彼女が高く評価しているのが、火燻狼であった。
「あの方は、大変、蛇らしい蛇ですね。名無しのジェムさんも優秀な人でしたけど、あの執着の強さは明確な弱点。燻狼さんのほうが上でしょうね」
燻狼から聞いた、サンクランドでの立ち居振る舞いは、実に素晴らしいものであった。
王子シオンやエイブラム王は、英雄の素質を秘めた存在であると、ジーナは見ている。
ゆえに、暗殺をするのは至難。
そんな者たちを暗殺するため、燻狼は弟王子に『悪戯』という形で仕掛けさせた。
「あのやり方は『地を這うモノの書』に適ったやり方だったと言えるでしょう。実に素晴らしい」
今、あの男が近くにいないことを残念に思いつつ、ジーナはせっせと仕掛けを整える。
そこは、古き町ドルファニアの市街地の一角だった。
別に旧市街地というわけではない。
治安の悪い貧民街でもなければ、薄暗い路地裏というわけでもない。
……ただ、そこは人々の意識から外れた場所にある建物だった。
幾度かの区画整理がなされる中で、できてしまった建物。非常に狭い、道とも言えないような道を潜り抜け、建物の間と間を抜けなければ入れないような場所に、それは建っていた。
目立たない建物でもないはずなのに、入口が見つけられないわけでもないのに……。町から忘れ去られ、置き去りにされたかのような、そんないくつかの建物を、ジーナは確保していた。
その一つを使い、とっておきの罠を作ろうというのだ。
「しかし、古き海の蛇よ。帝国の叡智の剣が罠にはまるかな?」
問いかけてきたのは、エピステ主義者の男たちだった。全員、腕に覚えのある手練れだ。
ジーナの見たところ、一人で百人を切り倒す怪物、剣聖ギミマフィアスや帝国の叡智の剣、ディオン・アライアなどには遠く及ばないものの、一国の精兵程度であれば、十分に戦える程度の実力を持つ者たちであった。
「はまりますよ、たぶんね。あのような、一線級の英雄であればあるほど、知らず知らずの間に、自らの勘に頼りがちなものですから……」
彼らは、その鋭い『戦闘の勘』により、危険を察知して回避してしまう。だからこそ、その勘を避けられるような攻撃には弱い。
別に魔法が使えるわけではないのだ。どれほど卓越した達人であったとしても、極度の集中を長時間続けられるわけではない。むしろ優れた戦士であるほど、警戒を効率化し、決戦に向けて温存をするもの。
殺意という、常人には認識できない気配を感知できる、そんなアドバンテージがあるのであれば、それを前提とし、最大限に活用した警戒の仕方を身に着けているものなのだ。
そして、普段からそのように行動しているのであれば、それを封じられた時には脆さを見せるはず。
ゆえに、五感をすり抜け、殺意すら感じさせないような……殺すのでもなく、傷つけるのでもなく、殺意なく、仕掛けられた罠には必ず引っかかるだろう。
「殺意を持たぬ罠? 殺さぬ罠に何の意味がある?」
「意味はありますよ。殺意を持った第二撃に繋げればいいだけです。殺意を感知し、攻撃を受けたとしても対応できないようにしてしまえばいいのです」
ジーナは、ベールに隠されていない口元に、嫣然と笑みを浮かべて……。
「第二撃のとどめは、あなたたちにお願いしますね。かの帝国の叡智の剣を討ち取れるのです。とても名誉なことでしょう」
「お前の子の仇は討たなくてもいいのか?」
不意の問いかけに、ジーナは一瞬、黙り……。
「ああ、仇なんて意味のないこと。そもそも、あの子はまだ死んでいませんよ。捕らえられただけです。私とは違ってね」
歌うように軽やかに、彼女は言った。
大陸共通語は、中央正教会が広めた言語だ。
誰もが神の書、神聖典を読めるように、大陸各国に広めたその言語は、今や、使えぬ者がいないほど各地に浸透している。
そんな大陸共通語と、ヴァイサリアン族の古き言葉とでは、ジーナ・イーダと言う名は異なる発音をする。
「ジー」は「ゼ」。「イー」は「イ」と……。
ジーナ・イーダ……すなわち、古き海の蛇の発音で『ゼナイダ』と呼ばれる女は、少女のようなあどけない笑みを浮かべ、悪戯をしかける子どものように無邪気に……その罠をしかけていくのだった。
シリアスさんはもういないと言ったが……あれは嘘だ。