第六十話 シュトリナ、ナニカに気がつきかける!
――完全に誘導されちゃった……。
閲覧室を後にする時、シュトリナの胸にあったのは、なんとも言えない戸惑いだった。
――あのベール、確かに視線を隠すものなのかもしれないけど、それだけじゃないかもしれない。その可能性を全く考えなかったなんて……なんて迂闊。
悔しさに、唇を噛みしめる。なぜ、それを考えることができなかったのか……。
「あいつが余計なこと言ったから……」
なぁんて、令嬢らしからぬ口調でつぶやいて……直後、うーっと頭を抱える。
それが完全な八つ当たりであることも、なぜ、そんな八つ当たりをしてしまうのかも、自分で理解できてしまったからだ。
それは、認めたくなかったから……。
自分が、あの男の言葉を一切疑うことなく、心から信じきっていたということを……。
帝国最強、ディオン・アライアという男を信頼し、頼り切っていたということを……。
「うう……は、恥ずかしい……」
自分でも気づいていなかった事実を突きつけられ、その実感に、シュトリナは自らの頬が熱くなるのを感じる。
しかも、その彼自身からも事前に言われていたのだ。
気を抜かないように、と窘められ、なおかつ、頼りにしているとまで言われていたのだ。それなのに……。
――ベルちゃんと遊べるからって浮かれてたから。それに、ミーアさまの近くにいて、気が抜けてたのかも……。
あえて、ディオン本人に対する気持ちには、目を向けないようにしつつ……。
――ダメだ、気をつけなくちゃ……。
そっと目を閉じ、大きく深呼吸。
――大丈夫。リーナだって、浮かれてばかりじゃない。今回はきちんと用意してきたんだから。
そうなのだ。いかにシュトリナがお友だちとの旅行にウッキウキでドルファニアにやってきたといっても、それはそれ。ミーアやベルとは異なり、彼女は腐ってもイエロームーン公爵家の令嬢である。帝国の裏で暗躍してきた名門のご令嬢たる彼女は、きちんと己が役割を果たすべく、備えを怠らない。
この地方の特有の毒への対抗策に加え、イエロームーン家伝来の秘薬も今回は持ってきているのだ。
――あれは、ちょっと危ないけど……。まぁ、毒見さえしっかりしてれば、そうそう使う機会もないから……。
ともあれ、まだまだ役に立てる場面はあるはずだった。
「それにしても、相変わらずミーアさま、すごいな……。油断していると、つい忘れちゃうけど……」
帝国の叡智の冴えに、改めて圧倒される。
ジーナ・イーダのベール、その裏に隠された可能性に、ミーアは、きちんと気が付いていた。そして、その意味も、危険性も、しっかりと把握していたのだ。
――もしも、ジーナ室長が、ヴァイサリアン族であることを隠していたとしたら……。なぜ、隠している?
ヴァイサリアン族は海賊の末裔だ。ガヌドス港湾国において、その正体を隠している者がいるのは道理だ。だが、このヴェールガ公国において、それをする必要が、はたしてあるだろうか?
さらに、この神聖図書館がクラリッサ王女の手により燃え落ちるという情報……。
――ミーアさまは、クラリッサ姫殿下を観察して、放火犯とは考えられないという結論に至ったんだろうな。だから、クラリッサ姫殿下を誘惑する者がいるという可能性を検討されているんだ。
今、この場所に、自らのルーツを隠しているかもしれない人間がいる。怪しく思うなというほうが、無理な話だ。
まして、その人物が『地を這うモノの書』を取り扱う部署の室長をしているという事実。
――もしも、彼女が蛇だったら……とても危ないことになる。
混沌の蛇は繋がりが薄い集団だ。時に目的達成のために協力することはあっても、組織と呼ぶには、その繋がりはあまりにも弱い。
そして、彼らはそれぞれに独自に進化した『地を這うモノの書』を持っている。
ヴァイサリアン族の蛇と、騎馬王国の蛇とでは保有している『地を這うモノの書』の内容が異なる。
『地を這うモノの書』は、中心的な教理に付け加わるようにして、秩序破壊の方法論が書き足されていくものだからだ。
互いに連絡を取り合うこともないから、たとえ蛇導師であったとしても、すべての『地を這うモノの書』の内容を把握することは困難だった。
けれど……。
――中央正教会は、神聖図書館に蛇の知識を集積させてしまった。もしも、各地の蛇の知恵を一つにまとめて習得した者がいるとすれば……その危険性はヴァレンティナ王女を上回るかもしれない……。
その証拠にミーアは、疑惑追及のために動こうとしているシュトリナに、自身の最強戦力をつけた。
帝国最強の騎士、帝国の叡智の剣、ディオン・アライアを……。
「ミーアさまは、かなり警戒してるんだ……」
となれば恐らく、ジーナ・イーダが蛇である確率はかなり高いはず……。なにしろ、あの帝国の叡智がそう考えているのだから……。
――ここまでしてもらっちゃったんだから、今回、もしもリーナが手柄を立てるようなことがあったとしても、きちんと忘れないようにミーアさまに栄光をお返ししないと……。中央正教会への報告も、そのようにして……。
しっかりと心に決めるシュトリナである。
「さて、それじゃあ、会いにいかないと、ね」
正直、気が進まなかったが……。諦めて、ディオンのもとへと向かう。
彼は、現在、神聖図書館内を警備する皇女専属近衛隊の者たちと打ち合わせをしているところだった。
「ディオン・アライア、少しいいかしら?」
声をかけると、ディオンはわずかばかり驚いた顔で……。
「おや、これはこれは。イエロームーン公爵令嬢、どうかしたのかい?」
おどけた様子で話しかけてくるディオンに、シュトリナは湧き上がる気まずさを呑み込み、可憐な笑みを浮かべる。
「ミーア姫殿下の命により、あなたにはリーナと一緒に行動してもらいます」
「ほう。姫さんから? ということは、荒事でもあるのかな?」
「場合によっては……だけど」
相手が警戒する前に、とっとと調べを終えられれば良いのだが。現実問題としてそれは難しい。そして、相手が反撃に出れば、当然のことながら、荒事にはなり得るわけで。
「あなたとしては、荒事があったほうが退屈しなくっていいのかしら?」
「ははは、まぁそうだけどね。最近は、むしろ、退屈の凌ぎ方を学んだほうが早いんじゃないかって思ってるよ」
肩をすくめつつ、首を振るディオンであったが……。
「ところで、なにかあったかい? なんだか、変な顔をしてたみたいだけど……」
「へっ、変な顔なんかしてない……!」
っと、思わず、変な声で答えてしまうシュトリナであった。