第五十五話 地下での会合
ヴェールガ公国の公都ドルファニアは、非常に歴史のある街である。
建国以来、この地に留まり続けているこの都には、大神殿や神聖図書館を始めとして、多くの歴史的建造物が存在している。
けれど、その歴史は地上部分よりも、むしろ地下、縦横無尽に走る地下水路のほうが長い。
ヴェールガの都がこの場所に定められるより遥か昔、この地に住んでいた古代の民により、その地下水路は建設された。幾度もの改修工事を経て、延伸を繰り返した地下水路は、さながら迷宮のごとき様相を呈していた。
そして現在、長き時の流れの中で、その全容を知る者も絶えて久しかった。
さて、神聖図書館のとある区画。古びて使われなくなった資料室のさらに奥に、重厚な本棚がしつらえられていた。その前に立って、ジーナ・イーダは辺りを見回す。
それから、本棚の下段、戸棚を開き、身を屈めて入っていく。
戸棚の中、奥の壁が、ずずずっと横に開いた。そこには、地下へと続く階段があった。
コツ、コツ、コツ……硬い足音を立て、ランプを片手に降りていく。やがて、目の前に広がるのは、闇の迷宮と化した地下水路だった。そこを迷うことなく進み、進み。いくつかの角を曲がった先、少しだけ開けた空間があった。
そこにいた男たちに、ジーナは柔らかな笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、みなさん。要請にお応えいただいたこと、心より感謝を……」
「感謝? 神も悪魔も持たぬお前が、何に感謝するというのだ? 古き海の蛇よ」
男たちはジーナのほうに目を向け、吐き捨てるように言った。
「うーん、強いて言うならば、人と人の生み出す偶然と幸運に感謝を、でしょうか。あなたたちがヴェールガの官憲の手に落ちていないのは、偶然とめぐりあわせの産物でしょうから」
口元に笑みを浮かべ、ジーナは歌うように言った。
「あいにくと、お前の戯言を聞きに来たわけではない。何ゆえ、我らを呼び出した?」
「まず、あなたたちに改めて感謝を。あなたたちを生贄とし、私は中央正教会に入り込むことができた」
「神聖典の聖歌か。厄介なことを考え付いたものよ。あれのせいで、我らはドルファニアの中に足を踏み入れられぬ」
彼ら、中央正教会の異端、エピステ主義者は、神聖典の文言に強い拒否反応を示す。悪魔崇拝者や邪神教徒なども同様だ。それゆえ、そう言った背景を持つ蛇は、ドルファニアには近づくことができない。
されど、ジーナのような無神論者に関しては、その限りではない。
蛇の一部には劇的な効果を示す対処法、それゆえに、そこに当てはまらない者たちにとっては格好の隠れ蓑となる。
「そう恨み言を言わないでください。懐に入り込んだからこそ、忘れ去られた地下水路の存在を知ることができたのですから……」
そう言ってから、ジーナは妖艶な笑みを浮かべて、
「それでも、不便だとおっしゃるなら、いっそ捨ててしまえばいいのに。そのようなつまらぬ信仰など」
事も無げに、ジーナは言った。それから、両手を後ろ手に組み、歌うように続ける。
「昔々、あるところに悪魔にとりつかれたと言われる男がいました。教会から派遣された司教が神聖典を用いて悪魔祓いを試みますが上手くいきません。疲れ果てた司祭に、男が異国の言葉で言いました。『この男は、なんて言ってるんだい?』って」
「なにを言っている?」
怪訝そうな顔をする男に、ジーナはくすくすと囁いた。
「その言葉を頭で理解できなければ効果がないというのであれば、それは、神の言葉ではなく、ただの言葉に過ぎない。もしそれが力のある神の言葉であるとするなら、口から発せられた時点で世界に作用するでしょうから。そして、言葉の理解を信仰の有無に変えてしまえば、おのずと答えは明らかではないでしょうか」
エピステ主義は、中央正教会の神を偽の神とし、その上位に真なる神が存在しているとする教えだ。その真なる神から授けられた知恵の欠片を持つ者こそが自分たちであると主張する者たちがエピステ主義者だ。はじめに中央正教会の教えがあり、その間違いを指摘するところから、彼らの教えは始まる。
悪魔とは、神に敵対する霊の総称だ。それを認めること自体が、神の存在を認めることとなる。
邪神とは、中央正教会の神と並び立つ別の神だ。そして邪神信仰とは、中央正教会の神の教えを基準とし、それとは別の教え、と対置されるものだ。
要するに、すべては神聖典から派生するようにして生じている。だからこそ、神聖典の言葉に拒否反応を起こすのだ。
結局のところ、心の問題、思い込みに過ぎない、とジーナは常々思っている。
だからこそ、それを信じないジーナにとって、神聖典はただの言葉に過ぎない。ただのおとぎ話、ただの人間の言葉に力などないと、そう思っているからだ。
「神聖典の言葉などまやかしに過ぎない。神などいないのです」
そして、もしも神がいないのだとすれば普遍的な価値観など存在し得ない。
犬が善悪を論じるか? 猫が世界の意味を論じるか? 魚が虫が木が、物の価値を論じるか?
答えは否だ。それらを論じるのは人間だけ。結局のところ、倫理も道徳も意味も価値も、すべては他人の戯言に過ぎない。全ての概念を『自分以外の他人の戯言』だと切り捨てれば、何物にも縛られる必要はない。
あるいは、多くの者の賛同が得られたものが普遍となりえるか?
だが、それならどうして多くの者が正しいとする価値観が正しいのか?
なぜ、多いほうが正しいと言える? 多いほうが正しいと誰が決めたのだ? 少ないほうが正しいかもしれないではないか?
そもそも正しさとは、なんの基準に照らし合わせて言っているのか? どの基準を参照して言うのか? 間違っていない、曲がっていない、真っ直ぐである、と。
参照する基準を決めるのは、自分自身ではないのか?
そして、個人が自分の感性によってすべての判断基準を決めるとするならば、そこにあるのは、秩序ではなく混沌だ。無数に判断基準が分裂した状態を混沌と呼ばずしてなんと呼ぶのか?
ゆえに、理の当然として、ジーナは混沌を愛する。
すべてが偶然によって生じた世界の在りようとしては、それが自然の姿であると信じるからだ。
そんなジーナの言葉に、男は反論する。
「詭弁だな。それは、お前たちに中央正教会の偽神の言葉が通じないというだけのこと。その一事をもって、中央正教会の偽神や、我らが奉じる真なる神がでたらめであるなどと、なぜ言える? 単に、神聖典の言葉には、元より、そのような効果がないというだけかもしれぬ」
ジーナはその言葉に、思わず笑いそうになる。
彼らは、神聖典を否定すると、敵の秩序であるはずの神聖典を擁護するかのように振る舞う。それが「人間の作り話」であるとすることは、彼らの世界観をも否定することになるのだ。
「あるいは、あの言葉は、真なる神の知識を持つ者にしか効果を発揮しないだけかもしれない。理由はいくらでも考えられる」
「なるほど。そう言った可能性も考えられますね、確かに」
ジーナは、あえて反論しなかった。何が正しいかを論ずるつもりなど、毛頭ないからだ。彼らのような「正しさ」が乱立することこそ、彼女の考える混沌の世界に相応しいからだ。
正しさが対立し、分裂し、砕け散って混沌へと堕ちていく。それが彼女の見る世界の終着点だ。
――神を信じる者、疑う者、金を崇拝する者、人助けに人生を費やす者……人間個々が正義を持ち、一人一人が異なる価値観を持ち……そこに一貫性がないことこそが真の混沌。それこそが蛇の目指すもの。いいえ、そこに堕ちることこそが自然の理というものです。
子を愛する親も、子を憎む親も、ジーナは等しく許容し、愛おしむ。どちらが正しいとか、正しくないとか、自身の価値観を押し付けることはない。
道で倒れた人を助けるのも、持ち物を奪うのも自由で、等価だ。それを善とする者もいて良いし、悪とする者もいて良い。
それぞれの価値観に従い、それぞれが大切に思うもののために振る舞えばいい。
そして、一人一人がやりたいように、生きたいように生きれば、そこには混沌が生じる。
――この方たちもせいぜい、自分の好きに生きればいいでしょう。私が口出しすることではありませんし。
小さく頷き、それからジーナは口を開いた。他ならぬ彼女自身も好き勝手に振る舞うために……。
「まぁ、深き神学談義は置いておくとして、本題に入りましょうか。実はみなさんには、この神聖図書館を火で焼き尽くしてもらいたいのです」
「なに……?」
彼らの顔が驚愕の色に染まる。
「あら、そんなに驚くこともないでしょう。もともと、あなたたちが言い出したことではありませんか?」
「それは、我らとしては願ってもないことだが……。お前は、我らを生贄に今の地位を得た。それは、中央正教会を内側から腐らせるためだったはず。そのための足掛かりを自ら崩そうというのか?」
「少々、事情が変わりまして……」
昼間のクラリッサとの出来事を思い出し、ジーナは唇に指を当てる。
――あの娘、私のことを怪しんでいましたね。なぜ、私をあの場に呼んだのか……。このベールを怪しんだだけ、とは思えないのですよね。クラリッサ王女へのアプローチも、上手くかわされてしまいましたし……。
クラリッサ王女の内にある、ミーアへの劣等感。それを刺激してやろうとしかけてはみたものの、上手いこと避けられてしまった。
すべての栄光を神に帰するなどという態度を取られてしまえば、中央正教会に属する自分には、何も言えない。
――それよりなにより、相手はあの恐るべき帝国の叡智ですし。
彼女の脳裏には、騎馬王国の軽薄な顔をした蛇を思い出す。ペラペラと、いろいろな事情を話してくれたっけ。
――他の蛇の試みをことごとく、根こそぎ平らげていく災害のような存在……。しかも、あの子を生け捕りにするほどの武力を手中に収めている……。私たち蛇の天敵とも言ってよい存在ではないかしら? そんな者が、私に疑いの視線を向けている。これは、警戒しておくべきでしょう。
中央正教会には、帝国の叡智に知られたくない情報もある。今のところ、いくつかの書物は隠してあるが、発見されてしまう可能性も否定できない。だから安全のため、帝国の叡智もろとも燃やし尽くしてしまえば言うことはない。
――あるいは、この者たちが失敗して捕らえられれば、私に対する疑いも薄れるかもしれませんし。エピステ主義者を苦しめる、神聖典の使い方を考案したのは私ですし、まさか繋がりがあるとは思わないでしょう。
そんなわけで、ジーナはエピステ主義者に地下水路の件を持ち掛けたのだった。
――あとは、相手の武力への備えでしょうか……。正面からいったらどうしようもないですし、搦め手で行きたいところですけど……。
そうして、ジーナは静かに考えを巡らせるのであった。