第四十九話 ミーア式、乗馬外交……不発?
女帝ミーア・ルーナ・ティアムーンは、国の内外に非常に広い交友関係を持つ人である。
彼女はいつでもフットワーク軽く他国の要人と直接会い、次々と友誼を深めていく人であった。
そんな彼女であったから、その外交能力を評価する者は非常に多い。ちなみに筆者もその一人である。
さて、彼女の外交手法の代表的なものとしては、お茶会外交と乗馬外交の二つが有名だろう。
お茶会外交については論ずるまでもないだろう。
健啖家として知られるミーアは、よく外交使節と共にお茶会を開いた。それだけでなく、互いの国の料理を出し合う晩餐会を好んで開いた。相手国の料理を絶賛し、自国のご馳走を惜しむことなく振る舞い、相手を歓待した。
自分の慣れ親しんだ母国の食べ物を褒められて、悪い気持ちがする者はいない。
豪勢な帝国料理を供されて、喜ばぬ者もまたいない。
そのような、人間の根源的な心理を把握した、帝国の叡智らしい外交手法といえるだろう。
一方で、乗馬外交もまた、女帝ミーアを代表する手法である。
のんびりと馬に乗りながら、相手との対話を試みる。部屋の中、膝を突き合わせていては決して出てこない本音を聞き、相手の心を開いていく。これもまた、帝国の叡智の名に恥じぬやり方といえるものであった。
聖ミーア学園図書館所蔵「女帝ミーア・ルーナ・ティアムーンに学ぶ基礎外交論より」
さて……そんなわけで……。
ミーアは、後に、得意技として記録されてしまう乗馬外交の、前身とも言えるようなことを今まさにやろうとしていた。
ニコニコと愛想よく笑みを浮かべながら、クラリッサに話を振る。
「どうかしら? クラリッサお……うじょ殿下。馬の乗り心地は、なかなか気持ちいいものではありませんこと?」
ゆっくりと視線を向けた先、そこには、乗馬するクラリッサの姿があった。ちなみに、乗馬初体験という彼女の馬は、アベルが引いていた。
ミーアに話しかけられたクラリッサは、一瞬、弟のほうに視線をやってから、
「は、はい……。馬が、こんなに高いなんて思いませんでした。それに、その、意外と揺れるものなのですね」
緊張で体を固くするクラリッサに、ミーアはかつての自分を見るような、なんとも微笑ましい気持ちになる。
「ふふふ、そうですわね。でも、この揺れも慣れると心地よいものに感じられるようになりますわよ」
「そう……なのでしょうか?」
「ええ、わたくしが保証いたしますわ。馬と共によい空気を吸って、体を思い切り動かして、お腹が減ったら、美味しいお料理をいただく。これほど幸せなことは他にないのではないかしら?」
昼食分のカロリーを早いところ消費して、夜に備えたいミーアである。常に先を見据えた、帝国の叡智らしい行動といえるだろう。
そんなミーアの幸福論に、後ろで聞いていた馬龍もニッコリである。
それからミーアは、今度は、反対側にいるラフィーナに目をやった。
「ラフィーナさまも、とてもお上手ですわね。あれから、相当、お乗りになったのでは?」
「ふふふ、以前ミーアさんとご一緒した時、とても楽しかったから。あれから何度か、馬を乗りに出かけたのよ」
以前、乗った時には、盗賊もどきに追いかけられて、割と大変だったような……? などと首を傾げかけるミーアであったが、きっと、ラフィーナが気を使って言っているのだろうな、と……深くツッコむことはない。
まさか、ラフィーナが本気で、楽しいかも! などと思っていたなどと、夢にも思わないのだ。
そんな感じで、ニコニコと愛敬を振りまいて、全方位外交を展開する帝国の叡智である。
と、その時だ。ぶーふっと……。抗議するように、荒嵐が鼻を鳴らした。どうやら、自分が軽視されているようで、ご不満な様子である。
ミーアは、そんな荒嵐にも微笑みかけて……。
「あら、荒嵐……。ふふふ、わかっておりますわ。思い切り走りたくってうずうずしているのですわね」
優しく声をかけてから、アベルのほうに目を向ける。
「ごめんなさい、アベル。少し、荒嵐を走らせて来てもよろしいかしら?」
「ああ。構わないよ。ひさしぶりに思い切り走ってくるといい」
「感謝いたしますわ、アベル……では、荒嵐、いきま……うわっひゃあっ!」
っと、ミーアの指示を待たずに、荒嵐が走り出した。ぐん、ぐぐん、っと加速する荒嵐に、思わず落とされそうになりつつも……。
――そうそう、これこそが、乗馬というものですわ。油断してると簡単に落ちそうなこの緊張感! これこそが、乗馬というものですわ。
必死に落とされぬよう足に力を入れ、手綱を全力で掴む。途中、片手が外れてしまったが、それも根性で、なんとか乗り切る!
ただ、荒嵐の動きに合わせることのみに集中! 集中!! 集中!!!
ぽーんっと空っぽになった頭に、心地よさすら覚えつつ、ミーアは思う。
――ああ、これですわ。無心になって、ただ、馬に乗ることのみに集中する。これならば、クラリッサ姫殿下も、きっとつまらないことなど考えている暇はないはず。やはり、乗馬は素晴らしいですわ!
そうして、ミーアは到達するのだ。ただ、無心に流れに身を任せる海月の境地に!
余計なこと、濁ったことを考えることのない、澄みきった海月の境地に!
……ただ一つだけ、ミーアにとって想定外だったことがあった。
それは……まぁ、言うまでもないことではあるのだが……。ミーアが辿り着いた海月の境地とやらは、ミーアだからこそ辿り着けたもの。あるいは、荒嵐という暴れ馬がいたからこそのものであったわけで……。
クラリッサの心の内が、ミーアの考えている以上に複雑であることなど……馬に揺られるミーアには知る由もないことなのであった。
まるで、馬の言葉がわかっているかのような様子で微笑むミーア。
それを見て、クラリッサは驚く。
――ミーア皇女殿下は、本当に、馬に乗り慣れているのね。
それは、クラリッサの常識では、考えられないことだった。
「思い切り走りたくってうずうずしているのですわね。ごめんなさい、アベル。少し、荒嵐を走らせて来てもよろしいかしら?」
弟、アベルとそんなやり取りをした後、ミーアが馬を走らせ始める。その加速! その疾風のごとき速度に、クラリッサは思わず目を見開いた。
油断してたら振り落とされてしまいそうな速度に、けれど、ミーアは難なくついていっていた。「うっひゃああー!」などと楽しげな声を上げ、なんだったら、片手を手綱から放すなんていう超絶テクニックを披露している。
「すごい……」
「月兎馬って言ってな。騎馬王国の駿馬だよ」
ふと見ると、馬に乗った馬龍が隣まで来ていた。どうやら、クラリッサの言葉を、馬に対する賛辞と受け取ったらしい。あえて否定することなく、クラリッサは頷いて、
「あれが月兎馬……。聞いたことがあります。疾風のように速く、貴族のように気高き馬、月兎馬。我がレムノ王国の騎馬隊にもほしいと、何度か父が交渉したことがあると……」
直接、聞いた話ではない。あくまでも、ゲインがこぼしていたのを耳にしただけだ。
「そうだったか。だが、未だにレムノ王国の騎馬隊には、一頭もいないんじゃなかったかな……」
騎馬王国において、馬は、神が与えたもうた友である。最上の宝である。
だから、戦場で馬を使い潰すようなレムノ王国のやり方は、騎馬王国民には好まれないのだ。
「山族の族長さまと交渉しているとは聞きましたけど……」
「あの人は、ああ見えて誰よりも騎馬王国民らしい、馬を大切にする人だからな。大切な月兎馬を、軍事利用されることは好まないだろうさ」
その言葉に、クラリッサはハッとする。
彼女自身もまた、馬は軍事に利用するものであると考えていたためだ。
――馬なんて、自分に関係ないって思ってた……。軍隊の殺し合いの道具だって、お父さまやゲイン兄さまにしか関係ないんだって……。そう思ってた。
だから、興味なんてなかった。
知ろうともしなかった。
知らなくてもいいと思っていた。
でも……。
心に浮かびかけた想いに、クラリッサは、けれど首を振る。
――ううん、やっぱり、なんの意味もないことだわ。
馬は、なるほど……確かに、乗り心地は悪くない。ミーアのように、思い切り走らせたら、頭がすっきりするかもしれない。
でも……だからどうだというのだろう?
馬のことを知ったからといって、なにができるわけでもない。
レムノ王国において、令嬢が馬に乗るなんてことは常識外れだ。はしたないことですらある。
だから、クラリッサが乗馬を習ったところで、その気持ちよさを知ったところで、なんの意味もない。
――あるいは、ヴァレンティナ姉さまだったら、何か違っただろうか? あるいは、あのミーア姫殿下が、自分の立場だったら、なにか変わっていただろうか……?
聖女ラフィーナから友と呼ばれ、騎馬王国の有力者、馬龍からも、兄ゲインからさえも、一目置かれる人。ミーア・ルーナ・ティアムーン。
親しげに、友のように話しかけてきてくれた彼女なのに……感じるのは、暗く濁った羨望の気持ちだけで……。
その後の乗馬を、クラリッサは憂鬱な気持ちで終えた。
ミーアからも、アベルからも、ラフィーナからも話しかけてもらったのに……答えは、どこか上の空。そのこと自体に嫌悪感を覚える悪循環。
彼女の気持ちは深い闇に落ちていく。
乗馬の後、図書館に戻ったクラリッサは、深くため息を吐いた。
先ほど見たミーアの姿と自身との差が、迫ってくるようだった。
「あら、クラリッサ姫殿下、なにかお悩みかしら?」
落ち込む彼女に、ふいに声をかけてくる者がいた。
視線を上げた先、そこには、ベールの女性……ジーナ・イーダが立っていた。
「お困りのことがあれば、なにか助けてあげられるかもしれないし……よろしければ、お話、聞きましょうか?」
親しげな、まるで、友に向けるような笑みを浮かべて。