第四十八話 さすがに、もう……。
ミーアの急な思い付きにもかかわらず、気晴らし乗馬の準備はさくさくと進んでいった。
「俺たち騎馬王国民が巡礼に来た時に、馬を放しておくための広場があってな。馬たちを走らせることもできるようになってるんだよ」
勝手知ったるといった様子の馬龍を中心に、手早く準備が進んでいく。
アンヌに手伝ってもらって乗馬服に着替えたミーアが、ほげーっと馬たちを眺めていると……。
「そう言えば、ミーアと乗馬に行くのはずいぶん久しぶりな気がするな」
ふと見ると、アベルが優しげな笑みを浮かべていた。
「ふふふ、言われてみればそうかもしれませんわね。クラリッサ姫殿下には突然のことで申し訳なかったかもしれませんけど、良い気分転換になるのではないかと思いましたの」
「ああ、そうだね。姉上は、ここしばらくずっと図書館に閉じこもっていたから。体を動かしたほうが、頭もスッキリするだろう。気付いてくれて感謝するよ、ミーア」
「まぁ! 別にいいんですのよ。それに、わたくしも、アベルと久しぶりに乗馬をしたいと思っておりましたし」
っと、ミーアの声を聞いていたのか、少し離れたところで、荒嵐がぶーふ! っと鼻を鳴らすのが聞こえた。
「ああ、ふふふ。もちろんあなたともですわよ、荒嵐」
なんだかんだで、最近はすっかり紳士的な馬に慣れてしまったミーアである。
――東風は安心安全なんですけど、上で眠ってもいいぐらい穏やかに歩くから、運動量的にはいまいちなんですわよね。
その点、荒嵐は油断すると振り落とされそうな緊張感がある。食べ過ぎた分、運動するにはもってこいの馬なのだ。
「ミーアさん!」
っと、そこで声が聞こえた。振り返ると、ちょうどラフィーナがやってくるところだった。
急いで走ってきたのだろうか? その頬は仄かに赤く染まっている。息を整えるように胸に手を当てて、ふーっと大きく深呼吸してから、
「ありがとう。誘っていただいて」
涼しげな笑みを浮かべてから、ラフィーナは首を傾げた。
「でも、急に、どうしたの? 乗馬なんて……あっ、もちろん嬉しいんだけど……」
っと、そんなラフィーナに歩み寄った馬龍が、
「ははは、よかったな、ずっとミーア嬢ちゃんと遠乗りに行きたいって愚痴ってたもんな」
豪快な笑みを浮かべて、言った。
「…………は、ぇ?」
ラフィーナの口から、ヘンテコな声が漏れる。
「あ、え? なっ、なん……で? あれ、忘れるって……秘密にしといてって言った……」
「ん? 秘密に? そうだったかな……。まぁでも、言っただろ? 馬に乗ってると難しいことはすーぐ忘れるって」
「な……ぁっ……」
忘れてほしかったほうを忘れてもらえず、秘密にしておくという約束のほうを忘れられちゃったラフィーナが、あまりのことに口をパクパクさせていると……。
「ふふふ、わたくしもラフィーナさまと、また遠乗りに行きたいと思っておりましたのよ? だから、ちょうど良かったですわ」
流れを読んで、ミーアがフォローを入れる。なんとなく、ではあるが……ラフィーナとの付き合い方を学びつつあるミーアである。
「ミーアさん……」
その言葉に、ラフィーナは、感動した様子で、ちょっぴり潤んだ瞳で見つめてくるのであった。
さて、そうこうしている内に、本日の主賓であるクラリッサがやって来た。
「あの……本当に、乗馬をするのですか?」
おずおずと、上目遣いに聞いてくるクラリッサに答えようとしたミーアであったが……。
「よう、クラリッサ嬢ちゃん。久しぶりだなぁ」
林馬龍がニカッと豪快な笑みを浮かべながら言った。それを見たクラリッサが、ああ、と小さく声を上げ……。
「馬龍さまもいらしてたんですね」
「いろいろ、悩んでるみたいだが、そんなの馬に乗ればすぐに吹き飛んじまうぜ?」
それを聞き、クラリッサは……。
「そう、でしょうか……。でも、王女が乗馬なんて、変ではありませんか?」
弱々しく疑義を呈するも、
「ふふふ、まぁ、そう難しく考えなくても大丈夫ですわよ。クラリッサお……う女殿下。気楽に乗馬を楽しみましょう。わたくしも以前はまったく乗れませんでしたけど、今ではずいぶん上手くなりましたし。ラフィーナさまだって乗れますのよ?」
朗らかに笑みを浮かべて、ミーアは言った。
「何事にも、初めてがあるものですわ。せっかくの機会ですし、乗馬の初めてを経験してしまうと良いですわ」
それから、ミーアは荒嵐のほうに目をやった。
――思えば、わたくしもセントノエルに行って、初めて乗馬を経験したんでしたわね。あれから、いろいろありましたわ……。
ミーアの脳裏に乗馬にまつわる、あれやこれやの思い出が甦ってくる。
アベルとの乗馬デート、ルヴィとの対決、それに、あの蛇の暗殺者、狼使いからの逃走劇……。
「ふふふ、馬はいいですわよ。乗り手の心をしっかりと理解してくれる。命すら委ねられる、最高のパートナーですわ」
それから、ミーアは荒嵐に歩み寄り、その首筋を撫でた。
――まぁ、さすがにもう、あんな命懸けの経験はしないでしょうし……あれも今となっては良い思い出ですわね。
…………そんなことを、うっかり思ってしまうミーアであった。