第四十五話 ディオンの勘
「っと……」
突如、脳内に鳴り響くは警戒の鐘。己が直感に素直に従い、ディオンはシュトリナの肩を掴んで後ろに引いた。
「えっ……?」
驚愕に目を見開き、バランスを崩しかけるシュトリナの背中を片手で支えつつ、守るようにして一歩踏み出す。
無意識に、危険からご令嬢を守る動きをしていた自分に気付き、ディオンは戸惑う。
――さて、こいつは……どうしたもんかね……。
そうして見つめる先、立っていた人物と、自身が覚えた警戒感とが食い違い、わずかに戸惑う。
それは一人の女性だった。背丈は、ディオンより少し低いぐらいか。その身を修道服に包んだ女性が、ゆっくりと優雅な動作で振り返る。
「あら、ご機嫌よう、お客さま……」
なんとも言えない気品のある声。そこには害意も、敵意も、戦意も感じられない。
「はじめまして、私はジーナ・イーダ。この神聖図書館の資料管理室で働いている司書神官よ。もしかして、お二方は、ミーア姫殿下とご一緒に来られた方かしら?」
礼儀として、自分のほうから名乗った後、彼女は首を傾げた。その顔の、上半分を覆っているベールが、動きに合わせて、ふわりと揺れる。
――これはまた……奇妙な格好の人物が現れたものだね。
内心でため息を吐きつつも、シュトリナに視線を送る。っと、シュトリナはその場で可憐な笑みを浮かべて、
「ご機嫌麗しゅう、ティアムーン帝国、イエロームーン公爵家のシュトリナと申します」
「あら、イエロームーン家といえば……」
ジーナは小さく口を開き、一度、言葉を切ってから……。
「……かの帝国四大公爵家の方ね。お会いできて光栄だわ。それで、そちらの男性は……?」
「彼は、ミーア姫殿下の優秀な護衛です」
ディオンは、二人のやりとりを無言で見守っていた。特に、ジーナ・イーダの動きから一切視線を外さないように……。
彼我の距離を測るように、そっと目をすがめる。
およそ二歩……といったところだろうか。ジーナが立つ位置は、ディオンの間合いの内であった。
無造作にこちらの間合いに踏み入ってきたことを考えれば、非戦闘員の神官だと考えてもよさそうなものだったが……。
――一足飛びで、こちらの懐に入って接近戦でもしかけてきそうな距離だな……。短刀でも隠し持っていそうだ。
なんとなく、そんなことを考えてしまう。
今のところ、そんな殺気は感じられないが、ディオンは一切油断しない。一見して、その体はリラックスしているように見えて、その実、どのような攻撃に対処できるよう備えている。
やがて、何事もなく会話は終わり、ジーナは行ってしまった。その背から視線を外さずに、彼はシュトリナに話を振った。
「今の、あのジーナという神官、どう思った?」
そう問えば、シュトリナは……ギョッと驚いた顔をして……。
「え……? ああいう感じが好み……なの?」
その言葉に、逆に、ディオンのほうが不意打ちを喰らってしまう。
――つまりは、特に違和感を覚えてないってことか……?
基本的に、ディオンは、シュトリナの目利きを信頼していた。
蛇の技術を身につけたという彼女は、まずもって普通のご令嬢よりは、よく物が見えている。最近、ミーアのそばによくいるようになったパティというおチビさんにも、同じような感想を抱いているのだが、それはともかく。
――このお嬢さんが気付いてないってことは、僕の勘が間違っているか……。いや……。
ディオン・アライアは、己が勘を疑わない。
戦場にて、幾度も彼の命を救ってきた直感を、彼はなにより信用していた。であるならば、むしろ、シュトリナの目が欺かれたと考えるべきで……。
「ああ、なるほど……。つまり、あのベールは、蛇の目を欺くためか……」
「え……?」
きょとん、と首を傾げるシュトリナに、ディオンは言った。
「さっきの、あのご婦人、少し注意する必要があると感じたんだよ」
「注意……っていうと?」
「武術の心得がある。それも、たぶん、まっとうな戦い方じゃない。元殺し屋……とまでは言わないけど……」
いや、その可能性も否定できないか……と心の中で付け足す。
非戦闘員のように振る舞ってはいた。戦いに慣れているようにはまるで見えなかった。にもかかわらず、ディオンの直感は、あの女性を脅威と認識していた。
すなわちそれは、強さを偽るカモフラージュを自らに施していることだ、と、ディオンは判断する。
「でも、そんな……。全然、気付かなかった……」
ショックを受けた顔をするシュトリナに、ディオンは肩をすくめてみせた。
「たぶん、君たちは、相手の目の動きで心を読むんだろう?」
「確かにそうだけど……」
ハッとした顔をするシュトリナに、ディオンは頷いて、
「そう。あのベールは、視線の動きを隠すためのものだろうさ。一流の剣士であるほど剣の刀身の長さや剣筋を隠すものだけど……おそらく、蛇に対しては同じような効果があるんだろう」
蛇は、相手の心を読むことに慣れている。普段は無意識に、相手の心を把握したうえでやり取りをしている。だからこそ、それを封じられれば、危機察知能力が気付かぬうちに落ちるのだろう。
「だから、断言はできないが、たぶん、蛇への対抗策を自らに施した、蛇に対処する組織の者と見るべきなんじゃないかな」
ヴェールガ公国が長く蛇と戦ってきた国であるというのなら、そういった者たちも当然いることだろう。
そう考えるディオンであったが……。
――しかし、それにしては雰囲気が、あまり穏やかではない感じがするけど……。
なんとなく、すっきりしないものがあった。それもまた勘に過ぎないが……、今までのところ、彼の勘は自身を裏切ったことはなかった。
言語化できない感覚なれど、彼は、その勘に従って行動することにする。
「まぁ、警戒するに越したことはない、かな……。ん? どうかしたかい?」
「いや……相変わらず頼りになるなって思ったから……」
目をパチクリさせるシュトリナに、ディオンは肩をすくめた。
「おいおい、何を今さら。それより、以前にも言ったと思うけど、ミーア姫殿下への毒物の混入には十分に気を付けてくれよ」
そう言うと、シュトリナは、なぜだろう、意外なほど素直な顔で頷くのだった。