第三十五話 秘密部署と混沌の蛇
「まぁ、これは、ご丁寧に。ティアムーン帝国皇女、ミーア・ルーナ・ティアムーンですわ」
スカートの裾をちょこん、と持ち上げつつ……ミーアは、かすかな違和感を覚える。
――なにかしら……このジーナさんという方の言葉、独特の色気がございますわね。かすかに、異国の訛りがあるというか……。
けれど、それ以上に気になったのは……。
「それにしましても……第六ですの? 先ほどユバータ司教は、資料管理室は第五までとお聞きしましたけれど……」
小首を傾げるミーアに、ジーナは一歩前に出て、両腕を広げた。
「天は歌え、地は叫べ。我が神の栄光を」
唐突に、彼女の口から出た言葉、それは、神聖典の有名な一節だった。
突然のことに、ポカンと口を開けつつも……ジーナからの視線を感じたミーアは……。
「え、ええと……民は称えよ。我が神の栄光を……? と、これでよろしいのかしら?」
戸惑いつつ、続く一節を口にすると、ジーナは、あら、と意外そうな声を上げる。
「ふふふ、なにやら、合言葉のようになってしまいました。なにも、返してくださらなくともよろしかったのですが……」
くすくす、とおかしげに笑うジーナに、ミーアは小首を傾げる。
「まぁ、そうなんですの? てっきり、この図書館ではそのようにご挨拶するのかと思ったのですけど……」
ジーナは優雅な仕草で首を振ってから……。
「いえいえ、そのような挨拶はございません。ただ……かの者たちは、どこにでも現れますし。こうして一度は、神聖典を聞かせて差し上げないと安心できないでしょう?」
歌うような艶やかな口調で、ジーナは言った。
なるほど、どうやら、彼女はミーアを試したらしい。蛇でないかどうか……神聖典に異常な反応をしないかどうかを観察していたのだ。
「ジーナさん……それは、少しミーアさんに失礼なのではないかしら?」
咎めるような口調で、ラフィーナが言った。けれど、ジーナはまったく悪びれる様子もなく……。
「あら、失礼いたしました。第六資料管理室のことをご存じない様子だったので、てっきり秘密にしているのかと……」
むしろ、からかうような笑みを口元に浮かべた。
「そうであるならば、きっとみなも安心できることでしょう。ラフィーナさまが、お友だちをひいきして、秘密のお話しを色々となさってしまうのではないかと、みなで心配していましたから」
「そのようなことを、この私がするとでも……?」
涼やかな笑みを浮かべるラフィーナに、ジーナはゆっくりと首を振る。
「いえ、ラフィーナさまともあろう方が、そのようなことは、万に一つもしないだろうと、もちろんみなも思っております。でも……それ自体が蛇に対する油断かもしれない、とも思ってしまいます。彼らは狡猾。彼らは敵の顔をしていない。彼らは悪の顔をしていない。親しい友のようにすり寄り、近づき、毒を穿つ。それこそが蛇ですから……」
先日のルシーナ司教しかり、ミーアの様子を見に来たユバータ司教しかり。ミーアとラフィーナが仲良くすることを危惧する者は、やはりまだ多いのだろう。
再びラフィーナが言い返そうとしたところで……。
「ジーナくん、そのぐらいにしておきましょう」
ユバータ司教が間に入った。
「ミーア姫殿下には館長であるこの私が入館許可を出しました。そこにはラフィーナさまに対する一切の忖度もありません。もしも、ミーア姫殿下がかの者たちの仲間であったならば、その責任はすべて、入館許可を出した私の責任です」
ジーナは一瞬、沈黙し、それから深々と頭を下げた。
「出過ぎた真似をしてしまいましたね。失礼しました。ミーア姫殿下にも不快な思いをさせてしまったかもしれませんね。お詫びいたしましょう」
それから、ジーナは改めて言う。
「第六資料管理室は『地を這うモノの書』及び、混沌の蛇の情報を集める秘密の部署です」
「まぁ、それは……」
それを聞き、ミーアは先ほどのジーナの態度に納得がいく。
「混沌の蛇からすると、一番の敵と思われていてもおかしくはない方たちですわね。なるほど、先ほどの警戒も納得ですわ」
ユバータ司教が小さく息を吐いた。
「そう言っていただけて、安心いたしました。彼女は、ヴェールガに来て間もなく、蛇の手の者と対峙した際、神聖典の聖句をもって相手を撃退したことがあるのです。その時のことをきっかけに、蛇への対処法として、神聖典を唱えることが定着したんです」
「ふふふ、あの時は必死でした。地を這うモノの書の写本をここに運ぶ途中で……」
「まぁ! そうなんですのね!」
何度か、ミーアもお世話になっている、それはある種の予防手段だ。
蛇がいるかいないかを確認する際に重宝される、極めて単純なやり方である。その発見者となれば、なおのこと、その存在は蛇の恨みを買っているだろう。
「では、もしや、その顔のベールも蛇たちから逃れるためにしているのかしら?」
先ほどからずっと気になっていたことを尋ねてみる。っと、ジーナは口元に嫣然とした微笑を湛えて……。
「いいえ、これは目線を読まれないためのものです」
それから彼女はそっとベールを上げ、瞳を露わにする。やや金色みがかった、美しい瞳をミーアに向けて……。
「蛇は、心を読む時に、目から感情を読み取ろうとする。そのように地を這うモノの書に書かれていたのです」
ベールを元通りに戻してから、ジーナはそっと踵を返す。
「それでは、ご機嫌よう、ミーア姫殿下。この図書館の滞在期間が祝福されますよう、お祈りしていますわ」
歌うような、艶のある声を残して。