第三十一話 お父さまの心、娘知らず……
さて、ラフィーナの言葉に甘えて、ミーアはヴェールガ邸の浴場を堪能した。心の底から堪能した!
長旅ですっかり干物化した海月なミーアであったが、ヴェールガの澄みきったお湯で、すっかり戻され、サラサラ、ツヤツヤな状態を取り戻した。さらに、アンヌの手により、香油と保湿用の油を塗り込み、そのお肌は、帝国の叡智の美肌の名に相応しい仕上がりとなっていた。
その際、いつもより余計に、アンヌが二の腕をフニフニしていたような気がしないでもなかったが……それで、ずいぶん真剣な顔で、何事か考え込んでいるように見えなくもなかったが……まぁ、それはさておき。
そうして、真新しいドレスに袖を通し、ホカホカ湯気を立てながら冷たいお水を飲んでいると……。ヴェールガ家のメイドがやって来た。
「失礼いたします。ミーア姫殿下。当ヴェールガ公爵家が当主、オルレアンさまがお帰りになられました」
「まぁ、それは大変ですわ。すぐにお出迎えにうかがわなければ……」
ミーアはササッと立ち上がる。
基本的にミーアは大国の姫君であり、ヴェールガの客人である。どちらかと言えばもてなされる立場である。けれど同時に、神聖図書館を利用させてもらう立場でもある。
しかも、相手はあのラフィーナの父親であり、この国のトップであり、さらには大陸各国において信奉される中央正教会の頂点である大祭司だ。
――どんな方なのかは知りませんけれど……あのラフィーナさまのお父上ですし……。もしかすると、獅子の恐ろしさに溢れた方かもしれませんわ。失礼と取られるようなことはできるだけしないに越したことはありませんわ。
ということで、ミーアはいそいそと外に出る。っと、ちょうど門をくぐり、こちらに歩いてくる一人の男が見えた。その男にラフィーナが近づいていったのを見ると、おそらく彼こそが、ラフィーナの父、オルレアン・オルカ・ヴェールガなのだろう。
その迫力、その貫禄に――思わずミーアは唸る。
ラフィーナと同じ透き通るような水色の髪、理性の光を湛えた灰色の瞳、そして……ふくよかなお腹……迫力のある、お腹!
恰幅の良いその男性に、ミーアはなんとも言えない柔らかさを感じた!
…………いや、決して失礼な意味ではなく……そうではなくって。なんというか、その雰囲気、そう! 雰囲気である。まとった空気が、である! FNYっとしていたのである。雰囲気が!!
生真面目そうなルシーナ司教や、学者肌で硬質な印象のユバータ司教とはまた違った雰囲気だった。温和そうで、話しやすそうな人だった。
そんな空気にあてられて、ミーアは緊張していた体を少しばかりリラックスさせて、歩み寄る。
「ああ、ミーアさん」
声をかけてきたラフィーナに一つ頷いてから、ミーアは男のほうに向き直り、
「お初にお目にかかります。ヴェールガ公オルレアンさま。わたくしは、ティアムーン帝国皇女、ミーア・ルーナ・ティアムーンと申します。以後お見知りおきを」
そう言って、小さくスカートの裾を持ち上げる。心持ち、頭は深めに下げておく。
相手が温厚そうとはいえ、油断は禁物。常在ギロちんの精神である。
「これは、ご丁寧に。ミーア姫殿下。私はオルレアン・オルカ・ヴェールガと申します。」
オルレアンは柔らかな笑みを湛えたまま、
「我が娘、ラフィーナがいつもお世話になっています。娘の友人となってくださったこと、心から感謝いたします」
「いえ、わたくしのほうこそ、ラフィーナさまにお友だちになっていただけて、光栄ですわ」
そうして笑顔を返しつつ、ミーアは、ふむ、と内心で唸る。
――ラフィーナさまのお父さまは、大祭司の名に相応しく、優しそうな方ですわね。これならばとりあえず、大丈夫そうかしら……。
っと、ちょっぴりホッとしているところで、
「よぉ、嬢ちゃん。来たな……」
ふいに聞き覚えのある声が響いた。視線を向けた先、立っていたのは……。
「まぁ、馬龍先輩? それに……もしや、つれているのは、荒嵐ですの?」
ミーアの問いかけに、馬龍はニヤリと笑った。
「ひさしぶりだなぁ、嬢ちゃん」
豪快な笑みを浮かべて、それから馬龍は手綱の先にいた馬に目を向ける。
「実はな、嬢ちゃんがなかなかセントノエルに帰れないってことで、荒嵐が寂しがっててな」
っと、馬龍に抗議するように、荒嵐がぶるるーふっ! と鼻を鳴らした。
「ああ、ああ、わかったわかった。まぁ、暇してるみたいだったからな。嬢ちゃんがせっかくドルファニアに来るんなら、連れて来てやろうと思ったまでさ」
「まぁ、そうでしたの?」
ミーアは、ふふ、っと笑みを浮かべつつ、荒嵐に近づいて……。
「ふふふ、案外、可愛らしいところがありますのね、荒嵐も……あら?」
そこでミーアは気が付いた。
荒嵐が、なにやら、ミーアのほうにジロッと目を向けた後、むぐむぐむぐ、っと鼻を動かすのが見えて……。
「あ……ああ、これは、なつかし、ひやああああっ!」
直後、ぶぇえええくっしょん! っと、盛大に、荒嵐がくしゃみをした。
びぃっしゃーっと、暴風と何かの湿り気に襲われたミーアであったが、もはや、慣れたもの。
まるで悟りを開いてしまった人のように穏やかな顔で、ふーぅっとため息を吐き……。
「ひさしぶりだから、油断しておりましたわ……」
「ミーアさん、大丈夫っ!?」
大慌てで、ラフィーナとアンヌが駆け寄って来た。
「ふふふ、最近、遠乗りに行ってあげていなかったから、どうやら、荒嵐も機嫌を損ねてしまったみたいですわね。ここにいる間は、できるだけ乗り回してやるようにいたしますわ。覚悟しておくとよろしいですわ」
言いつつ、ミーアは荒嵐の首筋を撫でる。それから、
「申しわけありません。ラフィーナさま、お風呂にもう一度入らせていただいてもよろしいかしら?」
「もちろんよ、気にせずに使って」
気遣わしげな顔でそういうラフィーナ。っと、オルレアンはそんなラフィーナのほうにちらりと目を向けて……。
「ふむ、そうだな……。ラフィーナ、お前もミーア姫殿下と一緒に入ってきたらどうだ?」
「え……?」
突然のことに、ラフィーナは目を瞬かせる。
「え……ええと? なぜでしょうか?」
「いやな、せっかくの機会だし、お風呂に入って身綺麗になったところで肖像画を……」
「お父さま……」
途端、ジトッとした目を向けるラフィーナだったが……臆することなくオルレアンは続ける。
「せっかくお前の友人たちが来てくれたのだからな。全員で集合した肖像画を描いてもらおうと思って、準備をしていたのだ」
その言葉に、ラフィーナはハッとした顔をする。
「おっ……お父さま……そんなことをお考えだったのですか?」
それから……彼女は、ジワリ、と芽生えた罪悪感を堪えるように顔を歪め……。
「申し訳ありません。お父さま、私、そんなこととは露知らず、お父さまに酷いことを……」
しおらしく頭を下げるラフィーナに、オルレアンは優しい、温かな笑みを浮かべ……。
「なぁに、別に気にする必要はないさ、ラフィーナ」
それから、悪戯っぽいウインクをして、
「ちょうど、少し大きめサイズのお前の肖像画を作ろうと思って準備をしていたからな。その材料を転用できるだろう」
「…………お父さま?」
ラフィーナの声が、たいそう冷たい響きを帯びたが……まぁ、些細なことなのであった。