第三十話 一つの秩序と異端と混沌と
「海獣写本……。事前に報告は聞いていたけれど、そんなものがヴァイサリアンの村に……」
報告を受け、ラフィーナは腕組みして難しい顔をする。
「もっとも、まだ、詳しい中身の検証は済んではおりませんが……」
「いえ、ヴァイサリアン族が蛇と繋がりが深い民であることはすでに知られたことだから、そこから出てきた文書であれば十分に価値があります。もしかしたら、ヴェールガやサンクランド辺りにいた、エビステ主義者が、追われてヴァイサリアン族になっていったという証拠になるかもしれないし……」
「エビステ主義者? はて……なんですの? それは……」
聞き覚えのない単語に首を傾げるミーア。ラフィーナは少しだけ表情を曇らせて、
「中央正教会の、初期の異端ね。基本的に中央正教会では、神聖典を唯一無二の教典としているけれど、エビステ主義者はそこに別の教典を付け足すことで、大切な教えを歪めてしまった。一つの秩序に対し、微妙に異なる別の秩序を植え付けることで、混沌を引き出そうとしたの」
秩序と混沌……その言葉に、ミーアは眉をひそめる。
「それは、つまり……」
「そう。ヴェールガ国内にかつていた蛇。今も隠れ潜んでいると言われている。そして……私たちは、彼らこそが蛇の源流であると思っていた」
その言葉に、ミーアは思わず唸った。
なるほど、考えてみれば当たり前のこと。
混沌の蛇とは、秩序を破壊し、混沌をもたらす者たちである。その存在は、秩序に依存する。秩序のないところに、彼らは発生し得ない。
そして、この大陸最大最古の秩序こそが、神聖典である。その教えの中心地であるヴェールガにおいて、最初に蛇が生まれたというのも、ある意味では納得のことであった。
「つまり、異端として中央正教会を追われた者たちがガレリア海まで移動し、ヴァイサリアンとなった、と?」
「全部がそうなのか、もしくは、その地に暮らしていた人々と混じり合ってヴァイサリアン族となったのかもしれないけど……。ともかく、すべては仮定の話よ。ヴァイサリアン族に『地を這うモノの書』が伝わっているということ、彼らが内陸から移動していったということ。これらを単純に繋げれば、そんな推論も立つということ……」
ラフィーナは、そこで紅茶を一口飲んで……。
「あるいは……それ以前の可能性もあるけれど……」
「といいますと?」
「それが本や明文の形をとるより以前から、人々は神の教えを基にして生きていた。教えを文章にし、本にまとめたのが神聖典だけど、それ以前の人々だって神の秩序に生きていた。それこそ創世神話の時代の話には、神聖典は出てこない。当たり前のことよね、創世神話が神聖典の中に収められた話なのだから、今の形の神聖典が創世神話に登場するはずがない」
「つまり、神聖典ができる以前にあった秩序を破壊しようとする存在がいたかもしれない、ということですの?」
「そういうこと。神聖典という秩序に対する破壊者がエビステ主義者なのであれば、それ以前の秩序に対する破壊者もいたのかもしれない。ヴァイサリアン族は、その時代に内陸から移動した一族なのかもしれない」
ラフィーナの話を聞いて、ハンネスが興味深げに頷き、腕組みする。
「ちなみに、そうお考えの根拠があるのですか?」
「地を這うモノの書の中には、エビステ主義者の奉じる教典も入っている。ただ、それより遥かに古い時代のものと思われる文書も地を這うモノの書として扱われているの」
「つまりエビステ主義者以前の時代、神聖典が編纂される前の時代から『地を這うモノの書』が存在していた、と?」
スゥっと目つきを鋭くするハンネス。そんな彼の問いかけに、ラフィーナは静かに首を振った。
「わからない。古き破壊の知識を、後の時代に、地を這うモノの書に取り込んだだけかもしれない。だけど……神聖典以降の時代に混沌の蛇が出現したと仮定しては、理屈に合わないような証拠がいくつか出てくるという報告もあるから、早急に結論は出せないと考えているわ」
「なるほど……」
などと言う……ちょっぴーり難しいお話しを聞き流しながら、ミーア、最後に一口残していたレモンパイをパクリ。
レモンソースのしみ込んだパイ生地の食感を楽しむ。しっとり湿ったパイ生地を、噛みしめるたび、ジュジュワッと甘く酸っぱいソースが溢れてくる。
――ふむ……パイというのは、サクサクしているのが醍醐味ですけれど、最後の一口のしっとり湿った感じも良いものですわ。それに、お紅茶も……。
っと、ミーアは紅茶の底、溶け残ったジャムを味わいつつ、うふふ、っと笑う。
――ああ、やはり、甘い物は人の心を幸せにしてくれますわね。
そうして、ちょうど食べ終わったところで、ラフィーナが言った。
「さて、それじゃあお茶会もこのぐらいにしましょうか。ミーアさん、お疲れでしょうから、お風呂に入ってきてはいかがかしら?」
「まぁ、こちらにはお風呂がございますの?」
驚きの声を上げるミーアに、ラフィーナは穏やかに微笑んで言った。
「ええ。セントノエルには負けるけれど、それなりに広いから、ゆっくりしてもらえると思うわ」