第二十三話 動き出す者たち
そこは、退屈と停滞した空気に支配された部屋だった。
いや、部屋の体は成しているものの、そこは厳重な牢獄だった。
凶悪な蛇を閉じこめておくための塔……決して逃げられないように建てられた高い高い塔の最上階に、その部屋はあった。
部屋の中央に置かれたベッド、その上に、一人の美女が寝転がっていた。
黒く美しい髪が白いシーツの上一杯に広がっている。ここに捕らえられてからただの一度も刃を入れていない髪は、まるでそれを使って塔の脱出を目論んでいるかのように、長く、長く伸びていた。
無造作に長い髪を肢体に絡ませた彼女は、さながら沼に落ちた美しい花のごとく、どこか退廃的で不健康な美しさを身に纏っていた。
……さながら打ち上げられた海月のごとく、どこか太平楽で健康的なFNYを身に纏う、ベッド上のミーアとは対照的であった。まぁ、どうでもいいことではあるが。
透き通るような白い両腕を真っ直ぐに伸ばして、頭上に掲げるは一冊の本。蛇の巫女姫に唯一与えられた古の書物、神聖典……。
そのページをゆっくりとめくっていた彼女であったが、ふと思い立ったようにそれを閉じ……。
そうして彼女、ヴァレンティナ・レムノはゆっくりと体を起こした。
「ねぇ、馬駆、腕の怪我はもう治ったのかしら?」
その漆黒の瞳が向かう先には、一人の男が立っていた。
狼使い、火馬駆は腕組みしたまま、頷いた。
「そうだな……。もう戦うのに不足はない」
蛇の刺客、カルテリアとの戦いで不覚を取った彼であったが、しばしの静養を経て、すでに全快していた。
そんな彼を横目にヴァレンティナは歌うように続ける。
「そう。ならば、なぜ、あなたはここにいるの? 蛇導師を追いかける務めを与えられているのではなかったかしら?」
馬駆は不審げに眉をひそめる。
「なんだ、突然。我が蛇導師を捕まえ、その功績をもってここから出してもらう……などと言う皮算用をしていたわけではなかろう?」
まぁ、反対に、蛇導師を捕まえるな、などとも言わないだろうが……。
なにしろ、ヴァレンティナは常日頃から言っている。
自分が捕まろうと、蛇導師が捕まろうと結局は同じこと。
帝国の叡智がなにをしようが、聖女ラフィーナがなにを言おうが、世界は変わることなく混沌の滅びへと向かう。
ならば、馬駆が、かつての仲間である蛇導師を狩り出そうが何も問題はない。そのはずで……。
けれど、ヴァレンティナは馬駆をからかうように笑った。
「どうかしら? そろそろ、この塔での生活も飽きて来たし、あなたの功績に期待するところは大きいかもしれないでしょう?」
そう言って、彼女は持っていた神聖典をポンっと投げ捨てた。
「せめて、なにか本が欲しいわ。神の教えとやらを読むのにも飽きて来たし」
馬駆はわずかばかりに眉を上げる。
「飽きるほど真面目に読んでいたとは、意外だ。なにか発見があったか……?」
抑揚のない声で問う馬駆に、ヴァレンティナは華やかな笑みを浮かべた。
「ふふふ、まぁ、改めて読むといろいろと面白くはあったわ。エビステ主義者の異端たちは、いろいろ文句を言いたくなるのでしょうけれど……」
エビステ主義者、中央正教会より異端の認定を受けた者たち。神聖典の教えを偽物の教えであると訴え、蛇蝎のごとく嫌い、あまりに嫌い過ぎるあまり、拒否反応すら起こしてしまう過激な者たち。
中央正教会と神聖典という、揺らぐことのない秩序に憎悪をたぎらせる彼らは、今の世もしぶとく生き残り、蛇の一勢力として活動を続けていた。
「ふん、そうか……」
言いつつも、馬駆は静かな目でヴァレンティナを観察していた。
話を逸らした……そのように感じられた。
以前の彼女であれば、たとえ時間がいくらあろうと、神聖典など手に取ろうとはしなかっただろうが……あるいは、その文言のどこを突けば相手の心を操れるか、そのようなことを考えたであろうに……。
――その胸の内でなにかの変化があるのか……それとも。
そんなことを考えた刹那……、
「ねぇ、馬駆、あなたは、私を愛しているのかしら……?」
不意討ちに、さすがの馬駆も言葉を失う。
その言葉の意味と、それを吐いた彼女の心を読もうとして……すぐに諦める。
想像を絶する……。この女の口から、愛などと言う言葉が出てこようとは……。
結局のところ、馬駆が出した答えは、以前までの彼女から推察できるもので……。
「今度は我の心を操ろうとしているのか……? そうだとすれば無駄なこと。我は元より、お前の指示に従うつもりでいる」
ヴァレンティナは、静かにこちらを見つめてきた後で、呆れたようにため息を吐いた。
「つまらない答え」
それから彼女はスッと神聖典に目を向けて。
「もし、あなたが私を愛しているのだったら、その愛の価値について説明してもらえたのに。ある人々が無上の価値を認める愛というものがいったいどれほどのものか……。そんなもの、死んでしまえば、混沌の内に散って消えてしまう、ただの感情に過ぎないと私は思っているのだけど……」
再び、ベッドの上に横になる。ややあって、その口からこぼれるように言葉が紡ぎ出される。
「私には、わからなくなったの。馬駆。この世界には奇跡など起きるはずもなく、ただ、一つの流れがあるだけだと思っていた。形作られたものはすべて混沌へと向かい、やがてはすべてが消えていく」
歌うように、流れるように、彼女の声は続いていく。
「人の一生もまたしかり。命という秩序は死という終わりにより、混沌へと落ちていく。この体も、死ねばバラバラに溶けて土になり、散り散りに消えていく。記憶も想いも、魂すらも、分解されて消えていく。そうして、やがて混沌に堕ちるなら、すべてのことは無駄でしかない」
手を、顔の前に掲げる。そこに、それがあるのを確かめるように、握り、開いて……。
「今まで、この世界を見てきた限りはそう。それは揺るがぬこと。でも……」
言葉を切って、それから、ヴァレンティナは改めて馬駆に目を向けた。
「もしも、愛しているのなら……この場所から私を連れ出してくれないかしら?」
「見張りを皆殺しにしろとでも?」
その問いに、ヴァレンティナは首を傾げた。
「腕が治ったのならば、皆殺しにしなくても、できるのではないかしら? そのために、あなたが全快するのを待っていたのだけど……」
意外なことを言われ、馬駆は動きを止める。
「殺すな、と……?」
「もし、蛇が正しいのであれば、いくらでも殺せばいい。人に価値などなく、その生に何の意味もないのなら、殺してしまっても問題ないでしょう。でももし……、もしも、人が混沌に堕ちるだけの者でないのなら……神が、その者に生きる意味を与え、役割を与えているのだとしたら……」
――そして、その役目を果たさせるために、生き返らせるということがあり得るのなら……か。
馬駆は、先日見かけた少女について、思いを馳せる。
あの日、あの廃城で首に矢を受けた少女。帝国の叡智の妹を自称する正体不明の、あの少女……。イエロームーンの娘を堕とすために殺されたはずのあの少女が、生きて再び目の前に現れたということ。
その衝撃は、計り知れないものがあった。
少なくとも、ヴァレンティナにとっては、今まで自身が持っていた価値観、世界観を完全に破壊される経験だったのだろう。
「それがわからないから……不用意に殺すことはできれば避けたいわ。だって、心臓に悪いでしょう? 死んだと思った者が目の前に出てきたら……。仕留めたと思った敵が、なんの影響もなく、恨みや怒りすらなく、目の前に現れるのは……」
「確かに……」
矢で射殺した相手が、復讐のためにこの世に迷い出てきたというのであれば、かろうじて理解できる。が、怒りの念を向けることなく、ごく自然に接してきたとなれば、それは、なんとも不合理なこと。
むしろ、自身が殺したという事実のほうを疑いたくなっても不思議ではないわけで……。
――我らが過ごしてきた過去は、果たして本当にあったことだったのか? それとも……。
小さく首を振り、それから馬駆は指笛を吹いた。
外で待つ二匹の戦狼に合図を出すためだ。
「それで、どこに行くつもりだ?」
「そうね……とりあえずは」
頬に手を当て、小さく首を傾げたヴァレンティナは、嫣然たる笑みを浮かべるのであった。