第百二十四話 希望の雑草は増え広がりて
「あっ、こ、これは、アベル王子殿下」
中年の文官が慌てて足を退けて、一歩、二歩と後ずさった。
「これは、その……、そこの女がですね、余所見を……」
「拾え……と言ったはずだが聞こえなかったか?」
有無を言わさぬ声で、再度、アベルが言った。と同時に一歩足を踏み出す。
「それとも、惰弱な第二王子の言うことなど、聞くに値しないかな?」
「い、いえ……滅相もございません」
文官は慌てて植物紙を拾い上げると、乱暴な手つきでモニカに渡す。それから、あきらめ悪くモニカを睨みつけたが……。
「重ねて言っておく。もしも彼女にこれ以上の無礼を働くようなことがあれば、それは、ボクにしたのと同じことだと思ってくれたまえ」
それ以上に鋭い目つきで、アベルは文官を睨みつけた。
それは戦場の騎士たちが帯びる刃のような気配……紛れもない殺気だった。
――この方は、こんな顔ができるようになったのね……。
アベルのその表情に、モニカは感慨を覚える。以前から、アベル・レムノに対する彼女の評価は悪いものではなかった。
このような国の状況にあって、親切にしてくれる心優しい少年。母親や姉妹に対してだけでなく、使用人であるメイドにも思いやりを見せることができる人物。
モニカもまるで弟のように、微笑ましくアベルのことを見ていた。
けれど同時に、統治者として、人の上に立つには不適格な人物とも思っていた。
優柔不断で甘さが目立つ性格。いざという時、権力者としての厳格な判断ができないのではないかと、そう考えていたのだが……。
――以前までだったら今の場面でも、へらへら笑ってやり過ごしたはずだ。助けてはくれたのだろうけれど、咎めることはしなかったはず……。それなのに、変わった。
今のアベルは、まるで母国のシオン王子のようだった。
彼ならば、あるいは、この国に巣食う悪しき慣習を変えることができるのではないかと、思ってしまうほどの変化。
いったい、なにが彼をこんなにも変えたのか……。
「大丈夫かい?」
気が付けば、アベルが覗き込んでいた。
「あ、申し訳ありません。王子殿下」
「いや、こちらこそ申し訳ない。君たちには、さぞ働きづらいことと思う。何とかしていかなければと思っているのだが、なかなか簡単ではなくてね」
苦笑いを浮かべつつ、アベルは頬をかいた。
「あの、このようなことを言ったら失礼に当たるかもしれないのですが、変わられましたね、アベル殿下」
「ん? そうかな?」
「はい、たくましくなられました」
「ははは、まぁね。情けないところを≪彼女≫には見せられないからね……」
彼女……。
それが誰を指すのか、モニカはよく知っている。
ティアムーン帝国皇女、ミーア・ルーナ・ティアムーン。
帝国の叡知。グレアムが蛇蝎のごとく嫌う、彼の天敵。
ただ優しいだけだったアベルを、雄々しき若獅子へと変えた少女……。
噂に聞く帝国の叡智に、モニカは好奇心をくすぐられる。
「どのような方なのですか? ミーア皇女殿下というのは……」
「うーん、そうだな……」
アベルはしばしうつむき、考え込んでから、わずかに照れくさそうな笑顔で言った。
「今のボクでは到底手が届かないほど魅力的で……、だけど、ボクが追いつけるって心から信じてくれた人だ。ボクが今よりもっと前に進めると、信頼して、励ましてくれた人だ」
愛しげに、大切な思いを語る人の口調でアベルは言った。けれど、
「だから、ボクは彼女の信頼に応えなければならない。もっと頑張らなければ……と、そう思っていたんだが……」
ふいに、アベルの顔がくもった。それで、モニカは気づく。
彼が鎧を身に着けていることに……。
「アベル殿下、まさか……」
「ん? ああ、そうなんだ。戦線が膠着しているらしくてね。兵たちを鼓舞するためにボクも出ることになった。本当は、兄の方が適任なんだが……」
そう言ってアベルは肩をすくめた。
「ケガをさせたのがボクなんだから、文句は言えないな。王族としての責任をきちんとはたしてくるつもりだ。王権の失墜は、混乱と破壊を生むからね……」
わずかに背筋を伸ばすアベルだったが、相変わらず、その表情は冴えない。
「なにか、気がかりなことがおありですか?」
「ああ、いや……。なんでもないよ。ただね……」
顔を上げ、遠くを見つめてアベルは言った。
「……民の弾圧に加担したボクを、きっと彼女は許さないだろうと、そう思ってね」
寂しげな顔で、そうつぶやいた。
「殿下……」
「では、失礼する」
そうして、出征するアベル一行を見送ってから、モニカは伝書鳥を放った。
本国への報せを携えた白き鴉と、もう一羽。
真実を携えた黒き鴉を。
黒衣の鳥は風に乗って、空を舞う。
報せが彼女の願い通りの人物のもとに届く保証はない。それでも、
――もしも、それが届いたとしたら……、それは運命がそれを選択したということ……。
その向かう先は……。
かくて、ミーアがせっせと蒔いた種は芽吹き、さながら雑草のように次々と広がっていく。