第十話 信頼と無責任と
馬車に乗り込むミーアを見送って、ビガスは小さく息を吐いた。緊張していた体をわずかに弛緩させつつ……。
――やはり、帝国の叡智……。さすがに抜け目ない。あの方は、ただ甘いだけの方ではないということか……。
っと、そんなビガスに話しかけてくる者がいた。
「ミーア姫殿下は、やはり、私たちのことをまだ完全には信用していないということでしょうか……。王宮よりも先に、まず海産物研究所に行くというのは……」
小さくため息を吐いたのは、彼の秘書を兼ねている娘だった。どこか残念そうな顔をする娘に、ビガスは首を振った。
「確かに、我々はヴァイサリアンを弾圧していた立場だ。そう簡単に信頼を得られるはずがない……という意識は重要なことだが……同時にこうも言える。仮に姫殿下の信頼を我らが得られていたとしても、ミーア姫殿下は視察を優先されただろう、と」
その言葉に、娘はわずかに目を見開いた。
「どういうことですか? 父上の言葉を信用するならば、ヴァイサリアンの受け入れはつつがなく行われているとわかったはずでは?」
娘の言葉を吟味するように一瞬黙ってから……、
「そうだな……。例えば、造船で考えてみると良い。私は付き合いのある職人のことを信用しているが、できあがってきたものは必ず自分の目で確認するだろう。なぜなら、船は漁師の命を守るもの。なにかあれば取り返しがつかなくなる」
「確かに、それは、そうですけど……」
「それと同じことなのだ。信頼と無責任とは紙一重。仲間と慣れ合いは、同じものではない。ミーア姫殿下は我らの言葉だけでなく、大商人シャローク・コーンローグからも報告を受けている。それでもなお、確認のために海産物研究所の視察を優先されたのだ。自分の目で見て、しっかりと確認しておく必要があるとお考えだから……それほど重要な施設であるとお考えだからだろう」
旅の疲れもあるのだろう、わずかばかり疲れて、げんなりした様子のミーアであったが、それでも、さすがは帝国の叡智。凡百の貴族であれば後回しにしそうなことであっても、決して、その重要性を見誤らない。
「あの方は、まことに叡智の持ち主なのだ。慈悲深い方ではあっても侮ってよい方ではない。過度に媚びへつらう必要はないが、断じて軽んじるべき方ではない。それを忘れぬことだ」
そうして彼が鋭い視線を向けたのは、娘のほうではなかった。その近くに立って聞いていた元老議会の新人議員のほうだった。つい先日、代替わりした組合の長である。
突如、話を振られて、慌てた様子で背筋を伸ばす男に、ビガスは再度、続ける。
「ヴァイサリアン受け入れの道筋をつけられた手腕を知っているのだから、そんなことはしないとは思うが……。仮に、万が一にでも、今あの方と敵対するようなことになれば、我が国は世界の敵に認定されても不思議ではない。ゆめゆめ忘れぬことだ」
その言葉に、新人の議員は目を見開いた。
「そっ、それほどですか……」
「そうだ。逆に言えば、あの海産物研究所はチャンスでもある。ミーア姫殿下が考案された食料相互支援の仕組み、ミーアネットに貢献できれば、我が国の地位と名誉は保証されるだろう」
ビガスは、こう思っている。
帝国の叡智ミーア・ルーナ・ティアムーンは、今や最も善良で、最も公正、神聖典における理想の王族を体現する存在になりつつある、と。
かのヴェールガ公国であっても、中央正教会であっても、今のミーアと敵対することはできまい、と。否、それらと敵対する理由を一切持たないからこそ、彼女は強いのだ。
――非難されるべき点を持たぬ、善良にして慈悲深い姫殿下……。民草にとって理想の統治者たる彼女を敵に回すなど、想像するだけで恐ろしい。
なにより、ビガスは、そんなことをしたくなかった。彼とて、ミーアのような理想の統治者を好ましく思っているし、ミーア個人にも好感を抱いている。
誰が好き好んで、そのような善良な者に逆らってまで、悪の汚名を着たいと思うだろう?
「あの方と敵対するようなことはもちろん、あの方を軽んじて侮るようなことは、厳に慎むべきことであると……己が組合の者たちにも強く言い含めておくことをお勧めしよう」
元老議会の重鎮、ビガスに言われ、新人議員はゴクリ、と喉を鳴らした。
それを尻目に、ビガスは自らの馬車へと乗り込む。ミーアたちと共に、海産物研究所に行くためである。
馬車に乗り込んですぐに、娘が首を傾げて、
「先ほどのは、釘を刺したのですか?」
「そうだな……」
ビガスは腕組みして、難しい顔をする。
「彼は元老議員になったばかり。ゆえに、釘を刺しておく必要があると思ってな……。こうして、ミーア姫殿下をお迎えに来たのが、姫殿下への敬意からであればよい。だが、もしも姫殿下を利用できるもの、他愛なき少女と考えてのことであれば、その誤解はしっかりと正しておかなければならぬ」
「議員の失態は議会の失態になる……と? けれど、ミーア姫殿下は、そのようにはお考えにならないと思いますけど……」
「そうかもしれない。が、それは甘えだ。ミーア姫殿下はそのような我らの甘えをしっかりと見抜かれるのではないか?」
ビガスはゆっくりと首を振った。
「私は思うのだ。ミーア姫殿下は、この国の歪みを解消してくださろうとしている。ここまで状況を整えてくださった。これ以上、ミーア姫殿下の慈悲にすがるようなことになってはならぬ。それは、あまりにも恥知らずが過ぎるだろう」
自分たちの行ってきたこと……それが悪であったのだと、今の彼はしっかりと知っている。否、以前から知っていたのだ。それにもかかわらず、どうすることもできなかったし、しなかった。
みなが当たり前だと思っていることに、否を唱えるのは難しい。まして、それが自分の損になるのなら、わざわざ、余計なことをする必要はない、と。
そんな彼に、はっきりと否定を突きつけた者こそが、あの帝国の叡智であったのだ。
「オウラニア姫殿下とミーア姫殿下、あのお二方を侮るようなことが、決してあってはならない」
戒めるようなビガスの言葉が、馬車の中、重く響くのだった。




