第七話 レムノ王国にて
ところ変わって、レムノ王国。王都の中心に建つフェデスクード城にて。
狭い廊下を、一人の妙齢の女性が歩いていた。
年の頃は、十代から二十代に移り変わろうかというところだろうか。片側で結んだ長く艶やかな黒髪を揺らしつつ、彼女は自室への道を急いでいた。
ふと立ち止まり、窓の外に目を向ける。せわしなく町を行き交う人々の姿を見て、女性、クラリッサ・レムノは小さくため息を吐いた。
夜空のように黒い瞳に深い憂いの光を湛えつつ、彼女は再び歩き出す。
なんとも言えない息苦しさが、胸の中を支配していた。
別になにか特別なことがあったわけではない。その見えない圧迫感は、彼女が生まれ落ちたその日から、ずっと感じているものだった。
「私はこの国の王族として生まれた。なのに、彼らに私がしてあげられることは、なにもない……」
ギュッと胸に抱えるのは、一冊の本だった。
それは、大陸共通語で書かれた本だ。
幸運にも、クラリッサは大陸共通語が読める。けれど、彼女の母は読めない。彼女の友人である貴族令嬢の者たちも、識字率は半々と言ったところだった。
「女は、社交場の花。パーティーに呼ばれれば、夫の後ろで黙って笑っていればいい。ダンスの相手をし、相手の話に、ただ相槌を打っていればよい」
それが、レムノ王国の、多くの貴族の常識だった。
彼女の父である国王もまた、同じ考えの人だった。
そして、クラリッサに求められるのは、それ以上でも以下でもなかった。
ただ、社交場の花であれ、と。良き妻として、家の中にこもっていろ、と。
なにも考える必要はない。黙って、笑っておけばよいのだ、と。
そんな周囲の声に敢然と立ち向かった人のことを、クラリッサは、ふと思い出す。
「ヴァレンティナ姉さま……」
ヴァレンティナ・レムノ。
レムノ王家始まって以来の才女。最も賢く強い王女と呼ばれた人だった。
彼女は、クラリッサの希望にして、劣等感を刺激される対象でもあった。
姉のことを思うたびに突きつけられる。
自分は、決して姉のようにはなれないのだ、ということを。あのまぶしく輝く太陽のような人のようには、決してなれないのだということを。
……そして、あの姉ですら、この国ではなにもできなかったのだ、ということを。
「姉上、少しよろしいでしょうか?」
廊下の前方、小走りに近づいてきた弟を見て、クラリッサは小さく眉を上げた。
「ああ、アベル殿下、なにかご用ですか?」
弟のアベルに対しても、クラリッサは敬語を使う。
王位継承権二位の王子に対して、それは当然の態度である、と、幼き日から教えられていた。
アベルは、一瞬、顔をしかめるも、小さく首を振って、
「少しお話があるのですが、よろしいでしょうか?」
「わかりました。では、私の部屋に行きましょう」
そう言ってから、穏やかに微笑みを浮かべて、
「せっかくですし、お茶も淹れましょうか。なにか、飲みたいお茶はございますか?」
そうして、クラリッサは城の調理場へと向かおうとする。
高貴なる身分の女性であっても料理をし、茶を淹れるべし。それがこの国の教えだ。
高貴なる血筋であれど、わきまえよ、と。
それは、そんな戒めを忘れぬようにするための風習だった。
「誰かメイドに頼めば良いでしょう。姉上が手ずからそのようにしてくださらなくても……」
どうもアベルは、そのような風習が好きではないらしい。優しい弟に、クラリッサは小さく笑みを浮かべて、囁くように、
「私が淹れたいの」
少しだけ言葉を崩して、言った。
「ひさしぶりに帰って来た弟とゆっくり話すのだから、そのぐらいはしたいわ」
始まりはどうであれ、そこに込められた意味はどうであれ……己が手で淹れたお茶を振る舞い、料理を振る舞うことが、クラリッサは嫌いではなかった。
そのほうが想いが伝わるような気がするし、家族にお茶や料理を振る舞うことが悪いことだとは思えなかった。
クラリッサの言葉に少しだけ考えた様子のアベルであったが、すぐに首を振り、
「わかりました。それでは、お言葉に甘えます」
わずかに表情を緩めて言った。
クラリッサの部屋に行き、お茶を淹れ終えたところで、
「それで、どうかしたのですか?」
改めてアベルの顔を見る。っと、弟は一瞬、言葉を選ぶかのように黙り込み、それからどこか覚悟を決めた様子で……。
「姉上……どうか力をお貸しいただきたい」
「私に、ですか……? 私にできることなど、何もないと思いますけど」
助力を求めるならゲインに……とはさすがに思わないが、それでも頼りになる貴族はいないことはない。ダサエフ・ドノヴァンしかり。良識派の貴族であれば、適切に助言をしてくれるだろうし、場合によっては力を貸してくれるに違いない。
――私にできることなど、せいぜいがこうしてお茶を淹れてあげることぐらい。あるいは、お弁当を作ってあげることぐらいかしら?
……キースウッドが聞いたら涙を流しそうなことを……あるいは、サフィアスが聞いたらぜひ、婚約者を弟子入りさせてほしいと懇願してきそうなことを思いながら、クラリッサは紅茶のカップを持ち上げた。
「実は、近いうちにヴェールガで祭りが開かれるのです」
「祭り、ですか? 聖夜祭まではもう少しあったかと思いますけれど……」
「はい。パライナ祭といって、各国の技術を共有し、この大陸の国々に進歩をもたらすことを目的としたものなのですが……」
小首を傾げるクラリッサに、アベルは静かな声で言った。
「ぜひ、姉上には、そのパライナ祭に、レムノ王国を代表して出ていただきたいと思っているのです」
「はぇ……っ?」
どこかの姫君を彷彿とさせるような、ちょっぴーりお間抜けな声を上げるクラリッサであった。