番外編 帝室を縛る鎖
……その日、シドーニウス・フーバーは、仲間からの連絡に目を通していた。
仲間……すなわち、混沌の蛇の手の者からの……。
「ほう、皇太后パトリシアに不穏な動きあり……ねぇ」
わずかに目を見開いて、彼は思わずつぶやいていた。ひさしぶりに感じるのは驚きと……わずかばかりの高揚感。他愛のないこの世界を、少しでも楽しくさせるイレギュラーを見つけてしまったことへの、ちょっとした興奮。
「だが、さて……この報告の信ぴょう性はどうなのか……。なにしろ、ゲルタ嬢は皇太后パトリシアに厳しいからな」
クラウジウス家のメイド、意地悪顔のゲルタを思い出し、シドーニウスは笑った。
「まぁ、同じ蛇同士に信頼など芽生えるはずもないが……ただ、確かに皇太后にも不審な動きはあるといえばあるか……」
なにとは言えない、それは言語化できない些細な違和感。他の蛇とは異なる臭い。皇太后パトリシアからは、蛇に特有の退廃的な臭いも、薄暗い憎悪の臭いも感じられなかった。
「皇太后パトリシアは、ただ、弟の命を守るためにのみ蛇に協力する者……。ゆえに、その行動が他の蛇とは微妙に異なるのは当然と思っていたが……しかし」
シドーニウスは、あの、表情の読み取れない顔を思い浮かべる。
「巧みにこちらにバレないように、逆らっているということか。蛇を内部から妨害するために、あえて自身も蛇に服従しているふりをする……? だが、なんのために?」
それが、大きな疑問だった。
皇太后パトリシアにとって、実の弟であるクラウジウス候ハンネスは心を動かすものであり、守るべきものだ。そして彼の命は、まさに、蛇が握っている。
殺すなどという積極的な手段を取る必要もない。ただ、その命をこの世に繋ぎとめる、薬を渡さないだけで、彼の命は消えるのだ。なのに……。
「弟の命を危険に晒して、いったい何を考えている……? あるいは、息子にでも愛情が移ったのか……? だが、皇帝の命にかかわる指示を与えたことはないはず……」
彼は手の中に、一粒の薬を転がしながら、確認するようにつぶやく。
「これがなければ、ハンネス・クラウジウスは徐々に弱り、死んでいく……。我らに逆らえば、この薬がもらえなくなる。にもかかわらず、パトリシアが裏切った……ということは」
シドーニウスは、静かに顔を上げ……。
「ハンネス・クラウジウスの病は、すでに治っている、とか……?」
吟味するように、口の中、言葉を転がす。
「いや、それは飛躍というものか……。現実的には、この薬をいずこからか、手に入れる方法を見つけ出したと考えるべきか……? あの病は決して治らない。地を這うモノの書にはそう書かれていた……」
否、それはいかにも根拠が薄い、とシドーニウスは首を振る。
地を這うモノの書といえど、この世のすべての真理が書かれているわけではない。
病の治療法がないことを証明するのは、神がいないことを証明するのに似て困難なこと。ゆえに、ハンネスが治っていても不思議はないか……とシドーニウスは思い直す。
「しかし、皇太后パトリシアが裏切ったとするならば、彼女を除くべきだろう。万が一の時のために、彼女を縛る鎖はすでに壊れたと考えるべきで……とすれば、帝室を縛るものもなくなるわけだし……」
ハンネスを生かす薬こそが、皇太后を縛るもの。そして、皇太后パトリシアこそ、帝室に対する蛇の影響力の大部分を占めるものだ。
だからこそ、シドーニウスのみが作り方を把握している薬、蛇が原初の時代に製法を編み出した奇跡の薬こそが、力を持つのだ。
「腹の探り合いだな。パトリシアが本当に裏切ったかどうか、確かめるべきだ。そのうえで、彼女に代わるものを探さなければ……」
っと、その時だった。手から意識が途切れた瞬間、薬がテーブルの上へと転がり落ちた。
「ふん、もしそうならば、この薬の出番ももうないか……」
つぶやくシドーニウスであったが……、薬を摘まみ上げようとした手が、ふと止まる。
「いや……だが、本当にそうか……」
一つの疑念が頭をもたげる。胸の内に生じた疑問を、彼はじっくりと吟味する。
「クラウジウス侯爵の病がもしも治っているのだとしたら……渡していたこの薬は、どうしたのか……」
誤魔化すために、捨てたと考えるのが、一番可能性が高い。あるいは、なにかあった時のために、それこそ、ハンネスの病が再燃した時のために保存してあるとも考えられるが……しかし。
シドーニウスは、顎に手を当てて、考える。
「先日、薬を受け取った時の態度が気になる……」
皇太后パトリシアは、表情を動かさぬことで有名だ。幼い頃から、蛇の教育を受けていた彼女は、非常に心を読みづらいのだが……。
「先日、彼女への縛りを強めるため、わざと薬を渡させるのを遅らせたことがあったが……」
陰から覗き見た彼女の顔は、確かに安堵したように見えた。薬を受け取り、わずかばかり、安堵していたのだ。
あれは、ハンネスの完治を隠す演技か……それとも……?
「……あるいは、誰か、他の者に使っていたという可能性はあるか……? だとすると……誰が……」
シドーニウスの脳内に、やがては一人の人物の顔が思い浮かんだ。
「まだ、本格的に発症はしていないのだろうが、あの特有の青白い頬……もしも、そうだとすれば、ハンネス・クラウジウス以上の人質になり得るのかもしれんな……。パトリシアを除いてしまったとしても、帝室を縛り続ける強力なカードになり得るのかもしれない」
そうして、彼は楽し気に手の中で薬を弄ぶのだった。
本日で第九部は終了です。
来週は遅い夏休みとします。
また、再来週お会いできれば幸いです。