第百二十二話 ミーア姫、血行が良くなる
「いくらなんでも、迂闊だったのではないか? ミーア姫」
「はて? なんのことですの?」
ドア越しに聞こえてくる声に、シオンはため息を吐いた。
「確かに我がサンクランドの兵力をあてにしているのであれば、君を害するようなことはしないだろうが……」
そんなことをすればシオンの不興を買うことになる。その上、まず間違いなくティアムーン帝国をも敵に回すことになるのだ。
加えて、ジェムという男の存在がある。ここを出て行って、現状を把握していないジェムと鉢合わせになった場合、ミーアに命の危険が及ぶ可能性がある。であるならば、現在の状況をランベールが説明してくれる分、ここにいたほうが安全だとさえいえる。
「だが、だからといって、ここに一泊するのは……」
っと、シオンの言葉を遮るように、ぱしゃり、と水の音が聞こえる。
そう、ミーアは今、湯あみの真っ最中なのだ。いい気なもんである。
何かあった時のためにとドアの前で護衛を買って出たシオンであったが、時折、中から聞こえてくる水音に、何とも落ち着かない気分になってしまって……。
それを隠すために微妙に愚痴っぽく、ミーアに文句を言ってしまうわけだが……。
――あら、可愛らしいですわ!
妙なところで勘の鋭さを見せるミーアは正確にそのことを洞察して……にんまり笑みを浮かべていた。
あの完璧超人であるシオンを翻弄している優越感からついつい調子に乗ってしまうミーアである。
わざとらしくお湯をちゃぽちゃぽいわせながら、ドアの外にいるシオンには見えないのに、湯船から足を出してセクシーポーズを決めてみたりする。
――うふふ……復讐してやりますわ!
完全に小悪魔モード全開のミーアである。
そんな若干うざい姿を見せられて、あきれ顔をしているのは、一緒に湯あみに付き合わされているリンシャだった。
万が一、中で何かあった時のためにと言われてはいるものの、その役目は自分でいいのだろうか? とついつい首を傾げてしまう。
そうこうしている間に、ミーアは湯船から出て、髪を洗い出した。
洗髪薬が入った瓶を傾け、中身を掌の上に出したミーアだったが……。
シャワシャワ、と両手をこすり合わせつつ、首を傾げた。
「はて、レムノ王国のものにしては、いまいち泡立ちが悪いですわね……。やはり、アベル王子にいただいたものは特別製だったということかしら……」
「王子から洗髪薬のプレゼントって……、ほんとにあなた、帝国のお姫様なのね……。ちなみに、なんていう洗髪薬だったの?」
「可愛らしいお馬さんの絵がついたのでしたわね。名前はおぼえておりませんが……」
「え……、それって確か……」
首を傾げるリンシャ。だったが……。
「とってもいい洗髪薬でしたわ。アベル王子にお会いした時には厚くお礼を言わねばなりませんわ」
にっこにこと笑みを浮かべるミーアを見たリンシャは……空気を読んだ。
「そう、なのね。うん、それは、よかった……ね?」
「うふふ、心配しなくっても、いつかリンシャさんにも、そういう殿方が現れますわよ」
優越感に浸っているミーアが若干うざかったが、グッと我慢のリンシャである。
実に大人である。
――ああ、それにしても、こうしてお風呂に入っていると、アンヌが恋しくなりますわね。
普段だったら、優しく背中を流してくれるところである。さすがにリンシャにそれを求めようとは思わないが……。
「ところで、ちゃんと兄さんを止めてくれるのよね?」
「……あ、あまり、焦るものではございませんわ。せっかくですから、今はお風呂を楽しみましょう」
とりあえず、そうごまかしつつも、ミーアは考えていた。
これから、どうすればいいのかを……。
そう……、甘いものを摂取し、なおかつお風呂で血行が良くなったミーアは、普段通りの脳の働きを取り戻しつつあるのだ。
ありていに言ってしまうと、気分爽快絶好調なのだ!
……だからどうした、という話ではあるが……。
こうして、数日分の汗と埃をすっかり洗い落としたミーアは、普段の八割ほどの美しさを取り戻すことに成功したものの、良いアイデアはついに浮かんでこなかった。
浴室から出てきたミーアは、頭からホカホカ湯気を上げていた。
用意されていた着替えは少しばかり大きかったものの、風呂上がりで火照った体には、そのぐらいがちょうどよかった。
「ふぅ、すっきりいたしましたわ……。あら? どうかなさいましたの?」
微妙に疲れた顔をしているシオンに首を傾げるミーア。
ため息を吐いて、首を振ってからシオンは言った。
「君の頭の中の計画が気になるところではあるが……。しかし、いずれにせよ、やはりキースウッドたちと合流すべきだろう。恐らくあいつのことだから、もう風鴉と連絡を取り合って、こちらを探しているころだと思うが……。それに本国にも連絡を入れてもらわなければ……」
もっとも、事態が動くまで数日は余裕があるだろうけど、とシオンは判断していた。
けれど……、その思惑は外れる。
翌日、革命派の斥候が一つの知らせをもって戻ってきたのだ。
王都より遣わされた騎士団が街道沿いに布陣したとの急報が。
そして、それを率いていたのが……。