第百三十六話 小さな寂しさ……
「あの、ヨハンナさま……」
ミーアたちの話が一段落ついたところで、パティは意を決し話しかける。
ヨハンナを縛ってしまった、未来の自分のけじめをつけるために。
「うん? おお、パティ。なんじゃ? 妾になんぞ、用か?」
話しかけられたヨハンナは、嬉しそうに相好を崩した。ヨハンナは、大変、機嫌がよい様子だった。
聖ミーア学園の生徒たちに、否、他ならぬミーアに言い負かされて、帝国の古よりの伝統を守れ、という、皇太后パトリシアの言葉を守れなくなりそうだというのに……なぜか。
「……皇太后パトリシアさまに言われたことは、もういいのですか?」
そう問いかけるパティであったが、予想はついていた。
ミーアの見せた未来像が、過去の皇太后パトリシアへの信頼を上回ったのだろう。
先ほど聞いたミーアの言葉には、それだけの重みがあったのだ。
聞きようによっては無礼な、踏み込んだ質問であったにもかかわらず、ヨハンナは機嫌を損なうこともなく……。
「ふふ……そうじゃな」
ただ、苦笑いを浮かべて言った。
「なんというか、このままじゃと、パトリシアさまに苦言を呈されてしまいそうな気がして、な……」
「……?」
きょとん、と首を傾げるパティに、ヨハンナは続ける。
「妾は、ただ帝国を、今のまま守っていれば良いと思っておった。何一つ変えぬことが、守ることであると考えた。じゃが……それは、怠惰に過ぎぬ。きっと、ミーア姫殿下のような勤勉な方には、歯がゆく見えたのじゃろうな」
苦笑するヨハンナに、パティは愕然とした表情を返す。
ミーアお姉さまが……勤勉……?
うっかり口からポロリしかけた言葉を呑み込み、無言で見守る。
「そして、たぶん、パトリシアさまも同じであったろう。孫娘のことを助けず、あまつさえ邪魔をする妾に、きっとやきもきしていたのではあるまいか……」
うん、まぁ、それはそう……とパティは心の中で大いに頷きつつ、無言で見守る。
「じゃが……あるいは、妾は……勝手にパトリシアさまのお考えを歪めているのやもしれぬな……。自分に都合よく……」
ヨハンナはそう言って、かすかに目を細めた。まるで、まぶしい光を見つめるかのように……。
「ミーアさまがおっしゃられた未来……妾はそこに、我が子たちの未来を見てしまったのじゃ。フーバー子爵と同じじゃ。妾は、パトリシアさまのお考えを守りたいと言いながら、同時に、サフィアスやカルラの幸せをも願ってしまう。サフィアスとカルラだけではない。その子の、孫の、妾に連なるすべての子どもたちの未来に、思いを馳せてしまったのじゃ」
その顔に、わずかばかりの苦しさを浮かべて、ヨハンナは吐き出す。
「ただ純粋に、パトリシアさまのお考えを守ることは、もう妾にはできぬ。妾には、守る者たちができてしまったからじゃ……」
苦悩に歪むその顔に、パティは慰めの言葉をかけようとした……のだが……、次の瞬間!
「じゃが、妾は思ったのじゃ! それはどう考えても、パトリシアさまが悪い!」
グッと拳を握りしめるヨハンナに、パティ、驚いて跳びあがる。それから、咎めるようにジッとヨハンナを見つめる……。が、それに気付いた様子もなく、ヨハンナは言った。
「だってそうじゃろう? あのような形で、あんなにも早く亡くなられたのが悪いのじゃ。妾のような者に後を任せて、お亡くなりになられたのがすべて悪いのじゃ。あの程度の火事、軽く抜け出して戻ってくればよかっただろうに」
そんな無茶な……と思いつつも、パティは静かに息を呑んだ。
ヨハンナの、その目が、かすかに潤んでいたから。
「じゃからな、もしも妾に文句があるのならば、生き返って、妾の前に出てきて、直接、言えばよいのじゃ……そうすれば、妾も文句を言うことができるじゃろう。言ってやりたいことは、妾にだって、たくさん……たくさんあるのじゃ」
奇しくも……そのヨハンナの願いは叶っていた。
今まさにヨハンナの前に立ち、その話に耳を傾けているのは、他ならぬ、パトリシア本人なのだから。
――もちろん、私は、この人が知っている皇太后じゃないけど……。それでも……。この人は二度と私と話をすることはないんだから……。
これから先、パティが過去に戻れば、過去のヨハンナと話すことはできる。いろいろな言葉を交わし、仲を深めることはできるだろう。
けれど……この目の前の人は……そうではない。もしかしたら、これは、皇太后パトリシアとヨハンナとが会話する、最後の機会になるのかもしれないから……。
なんの打算もなく、なんの考えもなく……パティは声を出していた。
「……もしも」
「うん?」
「もしも本当に、パトリシアさまが今、この場所に生き返って来たとしたら……きっとヨハンナさまのお考えには、反対しないと思います」
「ほう……?」
ヨハンナが、ぴくっと眉を動かした。
一瞬、怒られるか、とパティは覚悟する。
なぜならば、見ようによっては、パティがしていることは、大切な人の言葉を騙ることだからだ。
大切な人の魂を愚弄する者と、思われてしまうかもしれないからだ。
けれど、言葉を止めることはしない。
未来の自分が残してしまった言葉に、縛られ続けた彼女に……その言葉を守り続けた彼女の想いに、応えたいと思ったから。
「……パトリシアさまは、ミーアさまや、皇帝陛下だけを守ってほしいとは、思ってないと、思います。ヨハンナさまのことだって大切に思っていたのだから、そのお子さまたちのことも、子孫のことも、きっと大切に思っていたはずだから……」
その時だった。ふと、パティは思った。
――私は……この人の子どもを抱き上げることはあったんだろうか……?
カルラは無理でも、あのサフィアスが生まれた時、自分はまだ生きていたんだろうか?
その赤子を抱き、ヨハンナと笑い合う時は、あったのだろうか……?
そして、思う。
――仮に、ヨハンナさまの子を抱き上げることはあったとしても……。どちらにしろ、ミーアお姉さまが生まれた時には立ち会うことができないんだっけ……。
それは要するに、過去に戻ってしまえば、もう二度と、会うことはできないということだ。
ミーアにも、ベルにも、ヤナにも、キリルにも……。
その実感が不意に、パティの胸に迫ってきた。
火事で死ぬと言われても、なんとも思わなかったのに……ここにいる人たちと別れて過去に戻れば、もう二度と会うことができないのだと……そう思った瞬間に、なんだか……。
「そなたは……良き子じゃな……」
ヨハンナに抱きしめられた。
ギュッと体を締め付けるように……。顔が押し付けられたドレス、優しい花の香りのするそのドレスが、わずかに濡れていくのを感じ……パティは自分が泣いているのに気付いた。
「……あっ」
「良き、子じゃ。他人のために涙を流すことのできる、優しい子じゃ」
「え……や、あの……ちが……」
パティは戸惑いつつも、否定しようとする。
もし仮に、自分が泣いていたとしても、それは別にヨハンナのためじゃない。
ただの勘違いなのに優しくされてしまうと、気まずいやら、恥ずかしいやら……。なので、パティは否定しようと、腕をパタパタさせるが……。
「そなたの言葉、妾はとても嬉しかった。名前が似ている、ただ、それだけのことだとは思うのじゃが……まるでパトリシアさまご本人に声をかけられたような……そんな心地がしたのじゃ」
そう言われてしまうと、もう、否定もできない。
「……ぅう……」
困ったように、小さく呻いてから、パティは力を抜いた。
――まぁ……ヨハンナさまがずっと会いたいと思っていたパトリシアと再会できたのだから……うん、まぁ、これはこれでいい、のかな……?
ぼんやりと、そんなことを思いながらも……。
その胸に生じた、小さな寂しさは消えることはなかった。