第百三十五話 腕利きメッセンジャーに徹す
「ところで、ナコルさん、少しよろしいかしら」
フーバー子爵がヨハンナの言葉を受け、なにやら考え込んでいる間に、ミーアはナコルのほうに目を向けた。
突如、話を向けられて、ナコルは驚いた顔をする。
実のところ、ミーアはナコルも油断ならぬ者と思っていた。なぜなら彼は、もしかすると地を這うモノの書の一部に触れたことがあるかもしれないのだ。
混沌の蛇とは、弱者に感染する思想と、巫女姫ヴァレンティナは言っていた。であれば、父親が蛇でなかったとしても、地を這うモノの書の記述によって隔世的にナコルに蛇が伝染していることだってあり得るではないか。
――油断は禁物ですわ。蛇はどこにでも現れるもの。であれば、せめて居場所をきちんと把握しておかなければ……。
蛇の強みは、思いもよらぬところから攻撃してくるところである。言ってしまえば、その正体が判明していないことこそが、蛇の最大の武器とも言えるだろう。
極論してしまえば「蛇だと判明している力ある蛇導師」と「判明していない実力不足の蛇」と、どちらが脅威かと言われれば、おそらくは後者だ。
そう、少し考えれば実に簡単なことなのだ。
はたして、ジリジリと目の前からにじり寄ってくるギロちんと、突如、出現するギロちん、どちらが恐ろしいだろうか?
どちらのほうが、マシと言えるだろうか?
それは、考えるまでもなく……。
――そんなの、どっちもごめんですわ!
……そう、言わずもがなである。
どっちもごめん……そんなの当たり前のことなのだ!
っということで、どちらの危険も潰しにいくために、ミーアはナコルに向き合った。
「先ほどの議論、なかなかに見どころがございましたわ」
「お褒めに与り、光栄です……ミーア姫殿下」
恐らくは、なにかしら叱責を受けることを警戒していたのだろう、ナコルはミーアの言葉に意外そうな顔をした。
「あなたは、お父上、さらに、伯父上の言葉をしっかりと学んでいるのですわね」
「はっ! フーバー家の名に恥じぬよう、日夜、努めております」
胸を張るナコルに、ミーアは、軽く探りを入れていく。
「ところで、今回の討論会のメンバーに選ばれたということは、あなたはグロワールリュンヌ内でも成績上位者ということなのかしら?」
「はい。僭越ながら、常に、同年代の者たちの中で、上位三名から漏れることのないように、と、自らに課しております」
その自信に満ち溢れた顔を見て、ミーアは頷く。
――ふむ……この様子ですと“敗者になったこと”はないと考えても良いのかしら……?
蛇は、敗者から敗者へと感染していく思想だ。もしも、ナコルが成績優秀で、敗者の立場に立ったことがないのであれば安心できるのだが……。
「なるほど……。ふふふ、昨日の歓迎会では、あまりお話しする機会がございませんでしたから、こうしていろいろとお話しできて嬉しいですわ」
微笑みつつも、ふと、ミーアの脳裏に疑問が浮かぶ。
「しかし、なぜ、昨日はお話しできなかったのかしら……。わたくし、てっきりグロワールリュンヌの方たちとは、みな、ダンスをしたように思っておりましたけれど……」
その言葉に、ナコルの顔が、ちょっぴり曇る。
「いえ、その……恥ずかしながら……ダンスは、あまり得意ではなくって……」
どこか劣等感の滲む言葉に、ミーアの嗅覚が鋭く反応する!
――ほう、ダンスが苦手! ということは、もしかすると、運動全般が苦手かもしれませんわね……。そうでないとしても、貴族の社交界において、ダンスが苦手なのは、なかなかに敗北感を抱きがちな要素かもしれませんわ。
ナコルに対する疑いを解かぬまま、ミーアは話を進める。
「あら、そうなんですのね。それは残念ですわ……。ところで、伯父上のメモに、わたくし、少々、興味がございますの。他にもなにか、覚えているものはあるかしら?」
「色々とございますが、やはり、印象深かったのは、イエロームーン家のゲオルギアとカルディエの研究でしょうか……」
っと言ってから、ふと、まずい、という顔でフーバー子爵やマティアスのほうに目を向け……。
「あ、えと、その、帝室に反旗を翻したことが興味深いというのではなく、あくまでも、過去の歴史研究として……」
「別に気にする必要はございませんわ。シドーニウス殿は、帝国文化に興味がある方ですし。歴史を研究していたとしても不思議はございませんわ」
微笑みつつ、ミーアは思わぬ答えに首を傾げていた。
――イエロームーン公ゲオルギアの反乱……。そして、兄を止めた、次のイエロームーン公カルディエ……。帝国史に残る内戦未遂事件の研究というのは……なかなかに興味深い話が出てきましたわね……。イエロームーン家は蛇と関係の深い家柄ですし……。はたして、単純に調べていただけなのかしら……それとも……。
そこで、ミーアは苦笑いを浮かべる。
自分らしくないことをしていると、気付かされたからだ。
そうなのだ、ミーアが目指すのはあくまでもイエスマンになること。考えるのは自分の仕事ではない。
今は、帝国の叡智の知恵袋と名高いルードヴィッヒはいないものの、代わりに、頼りになる賢き祖母パトリシアがいるのだ! 頼らないなんてもったいないのだ!
その祖母……実は、ミーアよりちょっぴーり年下だったりするのだが、ミーアはそんなの気にしない。若さで相手を侮らない、さすがの叡智なのである!
……そうだろうか?
ということで、ミーアは助言を求めるべく横のパティに目を移す……。けれど、パティは、かたわらにはいなかった。
見ると、とととっと、ヨハンナのほうに小走りに向かっていくところだった。その顔には、いつになく、真剣な表情が浮かんでいた。
――ああ、パティ……ヨハンナさんと話しをつけにいったのですわね。ふむ、であれば……。
ミーアはナコルに視線を戻し……。
――後でパティとルードヴィッヒに相談できるよう、きっちりと聞き取り作業を進めておくことにいたしましょうか!
帝国の通信使、ミーア・ルーナ・ティアムーンの本領発揮である!