第百三十四話 ミーア姫、省エネ海月戦術の粋を見せる
さて……これでなんとかなるかしら……と思いつつ、ミーアはふと自らのお腹をさする。
――あら、今日食べたケーキに関しては、そろそろ消費してしまったのではないかしら?
我ながら、今日はよく頭を使ってるぞぅ! っと自覚するミーアである。そして……!
――今日食べた分を消費しきれば、昨日食べたプニッツァ分を消費しなければならなくなるはず……。それをも全部使い切れば、無理に運動することもないのかも……。
「なにになるか……」
ミーアが色々な意味で甘いことを考えている間に、いささか戸惑った顔をしているフーバー子爵。ミーアは頷いて応える。
「ええ、その通りですわ。あなたがお兄さんの思想に生きようと思っても中途半端にしかなれないのですから、それは当然のことではないかしら? あるいは、こうも言うことができますわ」
ミーアはニッコリと笑みを浮かべて言う。
「師が最も嬉しい時はいつか? それは弟子が自分を越えてくれた時ですわ!」
こう……師匠とか弟子といった関係がたまらん人たちが、好きそうな言葉を!
ちなみに、クロエがお勧めしてくれた「師匠と弟子との熱い友情モノ」の小説による知識である。それは、師匠推しと兄弟子推しと弟弟子推しで、ミーアの周りの令嬢たちの人気が三分される傑作であったのだが……まぁ、それはさておき。
「兄を……超える?」
フーバー子爵は呆気にとられた顔をした。けれど、その顔にかすかに……小さな熱意がほとばしるのを、ミーアは見逃さない。
教師をやっているだけはあって、フーバー子爵は、きっと好きなのだろう。師匠と弟子の絆とか、そういうのが!
内心でにんまーりしつつ、ミーアは頷く。
「ええ、その通りですわ。あなたは、農学が帝国を資するものであると知った……知ってしまったのですから……お兄さまにはなかった知見を持っていると言えるのではないかしら。その時点で、お兄さまより有利とも言えるでしょうし、お兄さまとは違う道を切り開かなければならない、とも言えるかもしれませんわ」
すでに、種は蒔かれたのだ。
彼はすでに知ってしまっている。である以上、彼には二つしか道はない。
その種を育てるか、放置し、枯れさせるか……。
けれど、ミーアは許さない。
見て見ぬふりで、その種を枯れさせることを……。貴族のそれは、断頭台を近づけるための近道だ。ゆえに、まずいところがあれば、それを正していかなければならないのだ。
特に人の上に立つ者たちは……。
「それが、この帝国のために忠義を尽くした、お兄さまに恥じぬ生き方ではないかしら?」
あくまでも、シドーニウスを、この帝国の忠臣として扱うミーアである。
彼の兄が蛇として「肥沃なる三日月地帯を涙で染め上げる」帝国を保守しようとしていたのならば、その保守しようという部分はそのままに、帝国の内情をすり替えるのだ。
『三日月をすべての臣民の歓喜の涙で染め上げる』帝国へと。
――お兄さまの記憶をあえて汚す必要もなし。お兄さまが立派な忠臣であったと信じているのならば、その幻想をそのまま使ってやるのが面倒のないやり方ではないかしら?
利用できる波は利用し、最低限の動きで波に乗る。省エネ海月戦術の粋を見せるミーアである。昨日より己が内に蓄えたエネルギーがすでに枯渇しつつある……と思い込んでいるミーアである。ミーアの中ではそういうことになっているのだ。
――しかし、このフーバー子爵は、お兄さまから蛇の秘密を話してもらえなかった……ちょっぴり頼りない方ですわ。ならば、変な方向に行かないように、少しだけ、方向を定めてあげる必要がございますかしら……?
ミーアは無意識に眉間に手をやる。そうして、幻想の眼鏡をクイッと押し上げつつ、イメージするのは、かつてのクソメガネ・ルードヴィッヒ。
できの悪い生徒を偉そうに指導するクソメガネの口調で、ミーアは言った。
「あなたがお兄さまを超える、その最初の一歩は、もう決まっているのではないかしら?」
その言葉に、フーバー子爵は眉間に皺を寄せる。
「それは……反農思想の是正、でございますか?」
「まさにそのとおりですわ。なにしろ、あなたは教師。悪しき偏見を払拭するのに、学校は良い場所ですわ」
言いつつも……ミーアは心の中で、ちょっぴーり悪い笑顔を浮かべる。
――フーバー子爵がその任を負ってくれるのであれば……わたくしに対する反感を逸らすことができるかもしれませんわ。
保守的な中央貴族を説得するのは、なかなか骨が折れる作業だろうなぁ、と思っていたミーアである。代わりにフーバー子爵がやってくれるならば、これほど楽なことはない。
「今の帝国貴族が持つ、農民を下賤な者と見下す思想……。けれど、農業が帝国の繁栄に有益であるならば、必然、農民は下賤な者ではない、と。そう思わせなければいけないわけですか……。しかし……」
ふとそこで、躊躇うように言葉を呑み込むフーバー子爵。
「別に、迷うことなどあるまい、フーバー子爵」
横から口を挟んできたのは、ヨハンナであった。
「先ほどミーア姫殿下がおっしゃられた通りじゃ。帝国貴族の古き慣習が誤っていたのであれば、同じ、帝国貴族である我らが正さねばならぬ。誤りと知ってなお正さぬは恥ずべきこと。先ほどのミーア姫殿下の言に妾は賛成じゃ」
堂々と言って、ヨハンナは扇子を取り出し開こうとして……そこでふと苦い顔をした。
扇子は……先ほどイロイロあったせいで、へし折れていたからだ。そう、イロイロと……。
「……妾の娘……カルラも根っこから叩きなおしてもらいたい。徹底的に、なぁ……」
先ほどの怒りがぶり返したのか、鼻息荒く言うヨハンナ。
同じ頃、少し離れた討論会の場で、なぜか、サフィアスとカルラの兄妹が、同時にぶるるるっと背筋を震わせていたとかいないとか……。