第百三十三話 ミーア姫、切り分ける(ケーキに非ず)
「我が兄の、シドーニウス・フーバーが子を成さなかった理由、でございますか?」
フーバー子爵が面食らった顔をした。今まで考えたことがなかったのか、難しい顔で腕組みする。
「ええ、そのとおりですわ。婚儀を結んだ末、子ができなかったわけではなく、妻すら持たず、独身を貫いていたという在り方が、どうにも伝統ある帝国貴族とはかけ離れているように思うのですけれど……」
言いつつ、ミーアは考える。
――ふむ、どうやら、フーバー子爵はお兄さまのことを尊敬している様子。それに、ヨハンナさんも、割と信頼している感じがいたしますわ。ということは、悪役として断罪する、と言ったスタンスでは反感を買ってしまうかもしれませんわね。とすると、どうするか……。
「なるほどな。そういえば、妾も気になったことがあったのじゃ。いったい、シドーニウス殿がなにをお考えか……」
ミーアの見解に同意するように頷くヨハンナ。対して、フーバー子爵は難しい顔で、
「実は、私は一度聞いたことがあります。その際、兄は、情が生まれるから、と言っていました」
「ほう、情が生まれる……」
「はい。血を分けた兄弟であっても、お前は他人である、と、私に言いました。だからこそ、情を介すことなくすべてのことを教えることができる、と……」
「なるほど、つまりは、シドーニウス殿は、子ではなく、弟子をこそ欲しがっていた、ということかしら……」
ミーアの問いかけを吟味するように唸ってから、フーバー子爵は頷いた。
「恐らくは、そうではないかと……」
「そう。そして、あなたは弟子として、そのお兄さまの志を継ぐためにグロワールリュンヌにて教鞭をとられている、と……」
「はっ! フーバー子爵家の一員として、恥ずかしくないよう務めさせていただいております」
「なるほど……」
小さくつぶやき、ミーア……大きく一歩踏み込む!
「ふむ……ならば……考えなければなりませんわね、フーバー子爵」
「は? なにを、でございますか?」
「無論、知れたことですわ。あなたが、何者にならなければならないか……ですわ」
それから、ミーアは上目遣いにフーバー子爵を見つめた。
「なぜなら、あなたは、お兄さまにはなれない。シドーニウス・フーバーのようには決してなれないから」
「なっ! なんですと!?」
ミーアの言葉に目を見開くフーバー子爵。ミーアは噛んで含めるように続ける。
「あなたは、兄の意志を継いだとしても、兄と同じものにはなれませんわ。なぜならば、あなたは、妻と結ばれ、子を成したからですわ」
ミーアは、断言してやる。
それは、目の前のフーバー子爵を、その兄であるシドーニウスから切り離すためのもの。
蛇であった可能性の高い、悪影響のある兄から、フーバー親子を解き放つためのもの。
お前と兄とは違う! と、まずはっきりと断言してやるのだ。
「我が父を愚弄するのは、おやめいただきたい!」
声を荒げつつ立ち上がったナコルに、けれど、ミーアは首を振ってみせた。
「別に、フーバー子爵を愚弄するつもりはございませんわ。ただ、これは、当然の論理の帰結というものですわ」
あえて、学問に携わる者に刺さる言い方をしつつも、ミーアは嫣然と笑みを浮かべた。
「あなたとシドーニウス殿とは違いますわ。彼は子を成さず、己が子孫の繁栄を望まず……ゆえにこそ言えたのでしょう。帝国の、反農思想を維持すべき、と……。フーバー子爵は、それをしっかりと認識すべきですわ」
「子孫の繁栄を望まず? いや、そのようなことは決して……」
「先ほどの討論、お聞きになっていなかったわけではございませんでしょう? 帝国が、これから先、発展していくためには、農業技術の発展は必須。反農思想を維持すべきというのは、最もシンプルな帝国繁栄の道を閉ざすものなのではないかしら?」
そこまで言ってから、ミーアはふと、表情を緩めた。
「あるいは、こう考えることもできますわ。シドーニウス殿は貴族の中の貴族、誇り高き帝国貴族であったのでしょう。だから、もしかしたら、彼は、詳しく知らなかったのかもしれませんわ。下賤なる農業のことを。農業を伸ばすことが、帝国を繁栄させていくことに繋がるのだ、ということを」
帝国の伝統の中に、反農思想が組み込まれている以上、帝国の伝統を強硬に保守すべき、と訴える人物が知らなくてもおかしくはない。唾棄すべき知識を、わざわざ習得する必要はないからだ。
もっとも、ミーアはそれを全く信じてはいなかった。たぶん、シドーニウス・フーバーは農学に関しても、相応の知識を持っていただろう。地を這うモノの書を知る男が、農学の知識に疎いなどということはあり得ない。時に農学の知識すら悪用し、秩序を破壊しに来るのが蛇というものなのだ。
けれど、死人に口なし。ゆえに、ミーアは積み重ねていく。フリオ・フーバー子爵を感化させるためのロジックを。
「それは……確かに。私も、先ほどの討論を聞くまでは、農学がこの帝国を資するものになるなどというのは、考えたこともございませんでしたが……」
渋々認めたフーバー子爵に、ミーアは満足げに頷き、
「そう。農学が国を豊かにするなどと思いもしなかったし、それに、彼は子を飢えさせる不安を抱くこともなかったのでしょう。なぜなら、彼は子を成さなかったから。彼は完全に論理の中に居続けることができたのですわ。なぜなら、彼には、理論より感情を優先させてしまうような、そのきっかけになる妻や子がいなかったから。親ならば当然抱くであろう、子が餓える不安。そんなものと、彼は無縁でいられた。でも……あなたは、違いますわね?」
そうして、ミーアはフーバー子爵を真っ直ぐに見据える。
「あなたは、お兄さまにはなれない。である以上……あなたは、考えなければならないのですわ、フーバー子爵。ご自身の、振る舞い方を。自分がいったい、なにになるのか、ということを」