第百二十八話 聖人のごとき善良さと隔絶した叡智の持ち主であるミーア姫は実在する!(……する?)
「政などと、たいそうなことを言ったところで、そんなものは、しょせんは人の群れを率いる集団行動の術に過ぎない」
シュトリナ・エトワ・イエロームーンは、かつてバルバラが吐き捨てるのを聞いたことがあった。その日、バルバラは、シュトリナの髪を梳きながら言ったのだ。
「統治者、王侯貴族などしょせんは、人の心を操るのが上手い詐欺師と何ら変わりはない。神から与えられた権威もそう、血筋もそう、そんなものは、他者に言うことを聞かせるための理屈でしかないのです。要は心の問題、気の持ちようといった程度の話」
貴族を殊更に嫌う彼女は、憎々しげな笑みを浮かべてシュトリナに言った。
「ですから、お嬢さま……四大公爵家令嬢などという肩書も、愚か者に言うことを聞かせるのに、役立つ程度のものでしかないのです。ゆめゆめ、忘れることのなきように」
とても冷めた口調で、彼女は言った。
貴族の権威など、命令を通すための道具に過ぎない。血統もまた同じ。それは、愚かなる民を納得させ、従わせるための要素でしかなく、神の与える権威ですら、しょせんは、矮小なる人の心の問題に過ぎないのだ、と貶める。
それは、ヴェールガ公国の、中央正教会の敷いた秩序を破壊するための、蛇のロジックであった。
聞いた時には、なるほどと思ったものだが、今のシュトリナはそこに疑問を覚えてもいた。
一つは、民を率いるのに使えるからといって、それがないとは言えないということ。
例えばの話、ある商人が「古の竜の化石」を高価な値段で売っていたとして、それが偽物であったとする。
商人は「高く売れる」効果を狙って「古の竜」のものと嘘を言ったわけだが……、では、この「古の竜」は商人が考え出した「値段を釣り上げるのに便利な幻想」だろうか?
それとも、実在するものだろうか?
商人が売っていたものが偽りの化石だったからと言って、その大本の存在までもが否定されるわけではないのではないか、ということである。
そしてもう一つ。
気の持ちよう、などと言われる、人間の心はそこまで軽視されるべきものであろうか? ということ。
シュトリナは知っている。
友情は、相手を操るのにも使える便利な感情。されど、それは「操るのにも使える」という理由で貶められるべきものでは、決してない。
人の感情は……心は、すべてに優先されるべきものではないにしても、すべての下に置かれるべき無価値なものではない、と
現にバルバラ自身が、その自らの感情によって運命を左右されたことを思うたびに、そして、親友ベルが、自分のために命を懸けてくれたことを思い出すたびに、シュトリナはそう考えるようになっていた。
「なるほど……蛇の……。パティも同じことを言ってきましたわ」
物思いにふけっていたシュトリナは、ミーアの声で我に返る。
そこは、討論会の部屋の片隅。話を聞かれぬように移動したミーアと、そしてパティが難しい顔をしていた。
「……はい。確かに、蛇の思考に近いものだと思います」
ミーアの祖母、今は亡き皇太后であるパトリシア……。自分と同じ、蛇の教育を受けた少女も、どうやら同じ臭いを感じ取ったらしかった。
「ということは……ナコル・フーバーは混沌の蛇の一員ということなのかしら……?」
その問いかけに、けれど、シュトリナは答えるのを躊躇した。
「その疑いは強まるかもしれませんが……」
その答えは、どこか歯切れが悪い。
理由はとても簡単で……。
「……ヴェールガの司教さまがいる中で、あんなふうに目立つことを言うのは、少ししっくりこない」
シュトリナの心を代弁するかのように、パティが言った。同意を示すために首肯してから、改めてシュトリナは考える。
言ってしまえば、あの発言は、とても迂闊なものだった。
蛇の強みは、自身の存在を気取らせないこと。目立たず、善人として振る舞い……最も効果的な時に牙を立てる。あるいは、ジワジワと気付かぬ程度の毒を流して、殺す。
それこそが蛇の戦い方。蛇はその存在が露見することを基本的には嫌う。その在り方からすると、あのナコルの在り方には違和感があった。
それを言うなら、父であるフーバー子爵も、であるが……。
「もしも、彼が蛇ならば、あそこまで意固地になって、帝国の伝統を守ろうとはしないように思います」
この期に及んで、そこに固執するとは思えない。
むしろ、ミーアの改革を後押ししつつ、同時に中央貴族の者たちの不満を助長させ、さらに民の不安を煽る、などと言った戦術に出そうな気がする。
あるいは、一度、ミーアを女帝に就けてから失政を誘い、改革の不安を煽ったほうが蛇のやり方に近いような気がする。
蛇は融通無碍。一つの思考に囚われず、その場の流れに乗りつつ、ジワジワと混沌の方向へと誘っていくはず。
あのような頑なさは蛇らしくない。
「……リーナも同感です。少し蛇にしては迂闊。でも、それ自体が擬態なのかもしれませんが……どちらかというと、蛇の知識に触れたことはあるけど、極めて断片的という感じがします」
「ふむ……ではナコルさんは『地を這うモノの書』の政治に関する項目の切れ端に触れたことがあるとか、そういうことかしら……」
つぶやきながら、ミーアが視線を向けた先、ちょうど、そのナコルが立ち上がるところだった。
「この議論が始まる前に、ミーアさま個人の資質とは切り分けて議論をする、ということにしたはずだ」
わずかに、苛立ったようなナコルに、反論するのはセリアだった。
「そうですね。ならば、言い換えます。ミーアさまのような方が現れれば、女帝は容認されるべきではないか、と。ミーアさまのお名前を出したのは、あくまでも、これが机上の空論ではないとわかっていただくためのことであった、と、そうお考えください」
その態度にミーアは思わず、おお、っと歓声を上げる。
――なんか、すごく頭が良さそうに見えますわ! セリアさん、相当鍛えられたんですわね……。大変だったでしょうに……。
ミーア学園での厳しい指導を想像し、そんな魔窟に送り込んでしまったことを、ちょっぴーり反省するミーアである。
「人心を納得させるために伝統の保証が必要であるというのなら、伝統的継承を上回る納得感を与える、素晴らしい方が帝位を継げばよい。弱き民を見捨てず、その一人一人を見守る、聖人のごとき善良さを持つ方が……」
――ああ、ユバータ司教の目の前で、聖人とか言ったらいけませんわ。セリアさん。そのように、軽々しく……。
などと、ミーアの注意する心の声は、まぁ、当然、届くこともなく……。
「あるいは、この国を治める力に、民が不安を持つというのなら、誰しもが知る、天より与えられし隔絶した叡智の持ち主たる方が帝位を継げばいい。それは理論を成立させるために考え出された便利な想像の存在ではない。実在する人物なのです」
そう言ってから、セリアは駄目押しをするように、微笑んで。
「こんなこと、実際に、そういう方がいらっしゃらなければ、決して言えなかったことです。そのような都合の良い者がいるはずはないと、反論されてしまいますから」
迷いのない澄みきった瞳で、セリアは言った。
――いやいやいや、さすがに、そこまで期待されては……。
微妙に胃がキリキリするミーアを尻目に、ミーア学園の生徒たちは、みな口々に……。
「ミーアさまならば……」
「いや、むしろ、ミーアさま以外の何者にもそんなことは不可能……」
などと、ぶつぶつ言っていた。
そして、それを聞いて、皇帝マティアスは、腕組みしつつ満足げに頷くのだった。