第百二十六話 …………はぇ?
「それは、秩序を破壊し、混乱を生み出すもとになるんじゃないか……」
ナコル・フーバーは静かに口を開いた。
「過去の歩みの蓄積――文化という秩序を破壊することは、人心の乱れにも繋がることではないでしょうか?」
先ほどミーア学園に……というより、皇女ミーアにやり込められて以来、彼はしばらく考えていた。
それは、どうすれば、この討論に勝ち筋が見出せるかということ……ではない。そうではなくって……どうすれば、己の確信へと議論を導けるか、である。
ナコル・フーバーは、自分たちの正しさを信じて疑わなかった。
かつて、彼の父、フリオ・フーバー子爵は言った。
「我が兄、シドーニウスは生涯、妻を持たず、子を成さなかった。兄は腹違いの弟であった私を後継ぎとして指名し、この帝国の貴族文化を守る者として取り立ててくださった」
遠くを見つめたまま、父は続けた。
「私は、兄のようになれなかった。妻を持たぬこと、子を持たぬことは、弱き私には耐えられなかった。だからこそ、ナコルよ。お前には励んでもらいたい。この帝国の貴族文化を守る者として、勉学に励み、思想を守ってもらいたいのだ。私が、独身を貫くことで果たせた成果……それ以上のものを、お前には果たしてもらいたいのだ」
そんな父の言葉と期待を受け、ナコルは日々、勉学に励んでいた。
父が、兄に対する罪悪感を持たなくても良いように。
父が子を成したことに、意義をもたらすために。
「お前が生まれてきてよかった」と言ってもらうために。
ナコルは日夜、父の部屋に通い、そこにある本を片っ端から読んでいった。
帝国貴族に蔓延る反農思想、その不合理に、彼はとっくに気付いていた。なぜ、このような不合理を維持しなければならないのか……その理由を彼は探していた。
伯父シドーニウス・フーバーは、この帝国の思想になんの疑問も持っていなかったという。父が認める賢人がそうなのであれば、きっとなにか、理由があるはず。
ナコルは答えを探し続け……ある本に挟まれた、ページの切れ端を見つける。そこには、彼の求めていた答えに繋がるヒントが……政に対しての驚くほどにドライで、それでいて否定のしようのない論理が書かれていた。
「統治とはなにか? 政とはなにか……?」
ゆっくりと、問いかけるように辺りを見回して、彼は続ける。
「私は、こう考えます。政治とはすなわち『集団行動』である、と」
王侯貴族の権威、統治者の権威は、神によって保証された権威。それが中央正教会の論理だ。そして政とは、神から与えられた権威を行使する、神聖で特別な行為――と一般的には捉えられている。
けれど、ナコルは、端的に言う。
それは、しょせん『集団行動』に過ぎない、と。
「集団行動、すなわち、人の群れをどのように動かすのか……。集団の心をどのように動かすのか、政とは、そのための手段である、と」
国とはしょせん、人の群れに過ぎず。国を動かすとは、人の群れを動かすのと同義である。すなわち、それは集団行動である、と。
その論理に立脚し、彼は続ける。
「では、そのために大切なことはなにか……? 政にとって大切なこと、それは『納得』です」
「納得……?」
ミーア学園の者たちが、小さくつぶやく。それを認めるように頷き、ナコルは堂々と言った。
「なぜ、女性が帝位を継ぐべきではないか? それは、多くの者の『納得』が得られないからである、と私は考えます。民も貴族も納得しなければ動かない、それでは集団を動かすことはできないからです。まぁ、暴力をもって、言うことを聞かせるという方法も考えられるかもしれませんが、中央正教会の司教さまには、認められない方法でしょう。であれば、政に『納得』は不可欠なものと言えるでしょう」
肩をすくめつつ、ナコルはユバータ司教のほうを見た。
「神に権威を与えられた、という論理も、また同じことです。神に権威を与えられた統治者から命じられれば、民は納得し、動くのです。言うことを聞かぬ民に兵を差し向け、暴力を以て行動させるのと同様、納得させることで、動かすのです」
神の権威を、人間の心理によって解釈しようとするそれは、ミーアのような媚びを一切廃したものだった。
遠くで聞いているミーアが「そんなこと言ったら、ヤバイんじゃないかしら……」などとちょっぴりアワワとしていたが、お構いなしに、ナコルは続ける。
「そして、これは、先ほどの農学にも言えることです。すでに、聖ミーア学園で農学をすることが優れたこと、と結論づいてしまっているかもしれませんが、私は改めて意義を申し上げたい。なぜ、農業に力を入れないのか? それは『納得』が得られないからです。伝統には納得がある。今までそのように生きてきたのだから、と民は素直に聞き、従うのです」
一息吐いて、ナコルは聖ミーア学園の生徒たちに目を向けた。
「なるほど、聖ミーア学園で農学をするのは理解できます。合理的なのでしょう。が、人は、理によってのみ生きてはいない」
断言し、さらに畳みかける。
「そして、納得は心の安定にもつながる。民を安んじて治めるべし、とする神聖典の教えとも矛盾しない。今までと同じであるということは、安心に繋がるし、変わっていくということには、どうしても不安が付きまとう。できあがった文化は一つの秩序であり、その秩序を変える、壊すということは、人心を乱れさせるのです。ゆえに、女性が帝位を継ぐべきではない」
そうして、ナコルの言葉は終わった。
それは、聖ミーア学園の生徒たちを圧倒するに足る、力のあるもので……。
その場を静寂が支配しかけた……、まさに、その瞬間だった!
スゥっと手を挙げ……ドミニク・ベルマンが静かに口を開いた。
「ゆえに……ゆえにこそ……私は作ったのです。ミーア姫殿下の顔を描いた、小麦畑アートを!」
「………………はぇ?」
どこかで誰かの、ちょっぴーりお間抜けな声が聞こえたような気がしなくはなかったが、誰も気にする者はいなかった。