番外編 決死の我慢のその先に
副題「次世代FNYの芽生え……?」
「ミーア姫殿下が……ケーキを残された……っ!?」
聖ミーア学園の調理学部教室に、その日、激震が走った!
動揺は波紋のごとく、関係者の胸に大きな衝撃として伝わっていく。
あの、健啖家として知られるミーアが……食ベ物を残したのだ。これはよほどのことである。なにしろ、皇女ミーアといえば、お替りするのが当たり前。それを残すことなく、ペロリと平らげる。大変に食いしん坊……いや、大食漢……でもなくって、ともかく……その、よく食べる人として有名なのだ。だというのに……。
「まぁ、ミーア姫殿下も体調が優れず、食欲がないこともあるだろう」
慰めるような教諭の言葉を、ぼんやりと聞き流している少年がいた。
ミーアのケーキの用意を担当した男子学生だった。
「どうして……」
つぶやきが漏れる。
正直、ショックだった。
料理の腕前には自信があった。
他のクラスメイトと比べても、決して負けてないと思っている。というか、なんだったら、クラスで一番だと思っているし、将来は、白月宮殿に雇われてもおかしくないのではないか、とさえ思っている。
……思いあがっている! けれど、それも仕方ないぐらいに、彼の技術は高いものだった。
そして、今日のケーキは、その技術力を如何なく発揮できた素晴らしい出来だった。
上品な甘味を出すことができたし、見た目も美しく仕上げられた。
お貴族さまはもちろん、皇女殿下にお出ししたって問題ない出来のものになったと、彼は自身を持っていた。なのに……。
「いったい何が悪かったんだ……?」
戻って来たケーキを前に、彼は愕然と立ち尽くす。
「三分の二しかお食べになっていない……ということは、味なのか……? いや、だが……」
お替り用に切り分けておいた別のケーキの味見は、すでにしていた。良い味だった。甘味は上々、焼き加減も絶妙。砂糖の焦げた匂いがとても美味しそうな一品に仕上がっていた。なのに……。
まったくもって、理由がわからなかった。いったい、どうして、こんなことに……?
数日前に他の生徒が出したお茶菓子のクッキーは、残さず食べたうえにお替りまでしたというのに……いったいなぜ……?
眉間に皺を寄せ、腕組みして大いに悩む。そんな彼の雰囲気が伝染したのか、周りの学生たちや、教諭も一緒に悩み始めてしまう。っと、その時だった。
「失礼いたします」
調理室に入ってくる人物がいた。
赤く長い髪のメイドの女性……それは、
「あっ、あなたは、ミーアさまのっ……」
皇女ミーアの専属メイド、アンヌ・リトシュタインだった。
専属メイドという、ミーアの側近の出現に、室内に緊張が走った。
なにか、あのお茶菓子に不都合があったのではないか? そんな疑念に、ケーキ作りを担当した少年は、青くなる。
「あっ、あの、なにか……」
いつもは頼りになる教諭も、心なしか緊張した様子で問いかける。っと、アンヌは小さく頷いて……。
「はい、その、先ほどのケーキをミーアさまが残されたことについて、お話ししたいことがあります」
まさに気になっていることを話し始めた!
「まさか、その理由を、ご存じなのですか!?」
少年は、思わず声を出していた。礼を失することかと思ったが、止めることができなかった。いったい、自分のケーキのどこが悪かったというのか……教えてほしかった。
「はい。みなさまが気にされているのではないか、とミーアさまから仰せつかっておりまして……」
アンヌは真剣な顔で続ける。
「まず、誤解のないようにお伝えしたいのですが、ミーアさまは、みなさんに作っていただいたお料理をとても喜んでいます。昨日のパーティーのプニッツァはもちろん、今朝のお茶菓子に至るまで、心から、それを喜んでおられるのです」
それから、アンヌは机の上に置かれたケーキに目をやって。
「それに、残してしまったものも、もったいないから捨てないように、と。これから、みんなで食べたいから、もらってくるように、とおっしゃいました」
「では、なぜ……どうして、俺のケーキは完食していただけなかったのでしょうか?」
少年は思わず食い下がった。理由が知りたかった。
なぜ、出したものは必ず完食するとまで言われているミーアが、欠片一つ残さないというミーアが……どうしたら、こんなに綺麗に食べられるんだ! とシェフを瞠目させるとまで言われたミーアが! 自分のケーキだけは残したのか……。なにが悪かったのか……?
そんな少年に静かに目を向けてから、アンヌは言った。
「それは、私がお止めしたからです。ミーアさまの……ご健康のために」
そうして、語られたのは、衝撃的な事実だった。
甘い物、脂の多い物の食べ過ぎによって健康が害されることがあるという事実。
そのせいで倒れた大商人という実例と医師を志す少女からの助言。
言われてみればもっともなことだった。
昨日のパーティーで出された食事量は、確かに過剰なものだった。それに、甘く、脂っぽい物も多かった。
だから、今日はできるだけ控えたのだ、と言われれば納得はできるが……。
「食べ過ぎが……ミーアさまのご健康を害する……?」
今までまったく考えたこともないような話に、少年は頭を殴られたような衝撃を受ける。
ただ、美味しく、甘く作れば良いと思っていた。味さえ一流ならば良いのだと思っていた。けれど、そうなのだ。
食とは、楽しみだけでない。体を支えるための重要な要素でもあったのだ。
「甘い物を食べ過ぎると、健康を崩してしまう。肉やパンばかり食べていても同様に、体調が崩れてしまうのだそうです。野菜も食べなければいけないらしくって……」
アンヌは、さらに続ける。
「例えば、白月宮殿のムスタ料理長は、ミーアさまのご健康を気遣い、食事のバランスや体に良い食材の研究に余念がありません。ミーアさまがケーキがお好きということから、甘さを控えめにした野菜ケーキなるものも作って……」
「ミーアさまの健康を気遣った食事……」
「はい、しかも、美味しい食事です」
テーブルに腕を突き、少年は項垂れる。
――そうか……そうだったのか。俺たちに求められているものは……。
後日、少年は、たまたま臨時講師としてやってきたムスタ・ワッグマンに弟子入りを志願することになる。この学園を卒業した暁には、ぜひに、と。
やがて彼はムスタ料理長と鎬を削り合い、帝国の次なる世代の食文化に多大なる貢献をすることになるのだが。
その最初の一歩が、ミーアの決死の我慢によって生み出されたものであったことを知る者は、誰もいないのであった。