第百二十二話 ヨハンナ、立つ!
――すごい……。ミーア姫殿下。
ミーアの言葉を聞いて、内心で感嘆の声を上げたのは、ルードヴィッヒ……ではなくバルタザル……でもなく、ガルヴ、ユバータ司教などでもなかった。
いや、まぁ、彼らは彼らで感嘆の声を上げていたことだろうが、あえて言わずとも、それは確実なことなので、別に言う必要もないだろう。
この時、ミーアのやりようを唖然とした顔で見守っていたのは、レアだった。
ミーアのやり方を見てしっかり学ぼうと思って聞いていたレアだったから、最初、戸惑いのほうが大きかった。
――ミーアさま、すごく口出ししてるけど、これじゃあ、ミーアさまとグロワールリュンヌの学生との討論会になってしまうような……。
その違和感は、さらに、ミーアの言葉で大きくなる。
「そこまではわかりませんわ。帝国の大貴族であったのか、グロワールリュンヌに入り込んだ異物か、それとも市井の思想家か……。あるいは、それは、邪神や悪魔と呼ばれる存在、神にあだなす存在であるかもしれませんわ」
――どうして、初代皇帝の名を出さないんだろう? 蛇も……。いや、蛇については仕方ないのかもしれない。あれは、信用のおける人以外には、秘匿しておくべき情報だから。でも……。
初代皇帝のことを隠しておく意味がない。
中央貴族の歪んだ常識を意図的に作り出した悪人がはっきりいるのだと、そう言ったほうが、説得力が出るのではないか?
首を傾げかけたレアであったが……続く言葉で、気が付いた。
「こう問わなければいけませんわね。我ら、人の上に立つ者が持つべき、正しい価値観は何か、と」
――ああ、そうか……ミーアさまは、討論の前提を整えようとされているんだ。
異なる価値観、異なる常識を持つ者たちが討論するのは難しい。すれ違い、噛み合わず、揚げ足取りに終始する、そんな討論会になってしまっては、両校の仲がこじれるだけだろう。
だから、ミーアは上辺の価値観を引き剥がし、同意できるところまで掘り進めた。
――初代皇帝の名前を出さなかったのも、そのためだ。その悪を個人のものとして扱わず……貴族の価値観に対する、普遍の悪として扱うために……。ミーアさまは、貴族にとっての善悪を定義しようとしているんだ。
あるいは……貴族の権威の裏付けである「民を安んじて治めるための権威」という言葉を、より具体的に定義しようとしている。
貴族にとっての善を定義するために、初代皇帝という個人や、蛇という集団の悪事にするのでなく、より普遍的な『悪』を論証しようとした。
だから、邪神や悪魔という普遍的な悪の名を出したのだ。
「今日、食べる物がある。明日も食べる物がある。これほどの幸せがあるかしら? 明後日、子どもに食べさせる物がある、その次の日も……。それほど心安らかでいられることは、ありますかしら?」
続くミーアの言葉には、なぜかはわからないが重みがあった。まるで、その苦難を実際に自身が経験したことがあるかのように……。さらに、そのうえで、
「共に食べ、共に踊った者たちを見捨てずに済む、その者たちの友を親兄弟を切り捨てるという判断をせずに済む……それほどの幸せがあるかしら?」
正論で相手を黙らせることなく、共感によって補強した。
その言葉で思い出されるのは、昨日のパーティーの光景だ。
――見ず知らずの民ではなく、共に踊り、共に食べ、共に笑った、親しみのある者たちにした。仲間意識を、昨日の時点で植え付けていた。貴族の子弟でも実感を伴って、食料不足の害を考えられるようにしたんだ……。
マイムーン・マイムーンの歓喜のダンス。
輝く月の下で、貴族と民が憎み合うことなく、見下し合うことなく、ただ食べ、喜びに舞い踊る。
それこそが、ミーアの描く正しさであり、幸せなのだ。
そして、その幸せを阻害するような価値観は『悪』である、と……ミーアは言っているのだ。
――神聖典の規定する貴族の権威、それを、グロワールリュンヌの学生にもわかるように伝え、その価値観に従って、聖ミーア学園の正しさを、論証している!
神聖典に書かれた倫理観は、みなが同意できる明文だ。されど、そこに書かれているのは、普遍的かつ基本的な理屈であり、個別の指示ではない。
困っている人がいたら助けなさい……当たり前のことだ。では、困っている人とは具体的にはどんな人か? どのように助けるのか? どこまでを助けるのか……?
その問いに答えを出すのは個々人であり、その適用をめぐっては葛藤が起きることもしばしばだ。
時に、悪意を持って恣意的に適用しようとする貴族もいる中で、ミーアは、これを帝国貴族の価値観として適用し、より具体化してみせたのだ。
レア・ボーカウ・ルシーナは、合理的な少女であった。それゆえ、ミーアの組み上げたロジックとその完璧さに、思わず感銘を受けてしまう。
――これこそが、帝国の叡智……っ!
「妾からも一つ……よろしいじゃろうか?」
勝負は決した……と思われた、まさにその時のことだった。
静かに立ち上がる者がいた。
帝国最大の門閥、ブルームーン公爵家夫人、ヨハンナ・エトワ・ブルームーンは凛とした態度のまま辺りを見つめて……。
「聖ミーア学園からのみテーマを設定するのは不公平というもの。今度は、グロワールリュンヌから、討論のテーマを指定したい」
その言葉に、ユバータ司教が軽く眼鏡の位置を直して、
「なるほど、確かに、それが公平というものでしょう」
それを聞き、満足げに頷いてから、ヨハンナは言った。
「ティアムーン帝国の最高位……皇帝の地位を女が務めることを是とするか、非とするか……。これをぜひ、論じてもらいたい」
その瞳は、烈火のごとき怒りのためだろうか……赤く染まっているように見えた!