第百二十一話 忠義のメイドは見た!
「なっ、何者か? そっ、それはいったい?」
ざわざわするグロワールリュンヌの学生たち。けれど、ミーアは静かに首を振り、
「そこまではわかりませんわ。帝国の大貴族であったのか、グロワールリュンヌに入り込んだ異物か、それとも市井の思想家か……」
ミーアは、仮想敵を正体不明の存在とすることを決定。蛇という名前は使わない。なぜなら、それが何者であるかわかっていると言ってしまえば……。
――攻撃手段として、政敵を陥れるために、相手を蛇だと訴える輩が出てくるかもしれませんわ。あるいは、隣にいる者が蛇であると、疑心暗鬼になるかも……。
それは、帝国革命末期にミーアが目撃した、とてもありふれた風景。
相手が革命派だと糾弾して陥れ、あるいは、陥れられぬよう逆に訴え……疑心暗鬼は際限なく広がり、帝国は割れに割れた。それもまた、飢饉に対する国としての動きを著しく阻害するものとなった。
あるいはそれは……司教帝ラフィーナの世界、ベルが最期の皇女となってしまった世界の風景でもあった。
蛇は、通常の組織などではない。強硬な手段で叩けば、それを逆用し、混沌を増し加えていく。極めて厄介な存在であるうえ、それを説明したからといって対処ができるものでもない。
ゆえに、信頼できる者以外には情報を共有しないほうが良い。
革命期の人心の動きを知り、なおかつ、その面倒くささを体感するミーアだからこその判断であった。
そして、それ以上に、そもそも地を這うモノの書などというものは、その存在が明るみに出た時点で、悪影響があるという代物だということもある。
――秩序を破壊する知識が詰まった厄介な代物、そんなものがあると知ってしまった時点で悪影響がございますわ。興味本位で読んでみたくなりますし……。知識を知れば、使う誘惑にだってさらされるかもしれませんわ。
蛇の本体は、あくまでも、その思想だ。ゆえに、その思想に触れる者の数を限定するため、その存在自体を隠す必要がある。
ミーアの頭脳が、冴え渡っていた!
ちなみに、この時、ミーアはうっかり右腕を押さえるのを忘れていたり……目の前のケーキがいつの間にか、三分の二のサイズになっていたりしたのだが……それに気が付いたものは、忠義のメイド以外にはいないのであった。
まぁ、どうでもいい話ではあるが……。
もぐもぐ、ごっくん、と無意識に口を動かしてから、ミーアはあくまでも、フワッとした敵として、それを説明していく。
否! ミーアはそこで気が付いた。
ソレを表すのに、もっと良い言葉がある。それは……。
「あるいは、それは、邪神や悪魔と呼ばれる存在、神にあだなす存在であるかもしれませんわね」
せっかくユバータ司教がいるのだ。こまめにアピールしておくに越したことはないだろう。
「いずれにせよ、悪魔であれ、人であれ……それが悪意を持った何者かであることは事実ですわ。なぜならばこの価値観は、帝国に害を為すものだからですわ」
セリアの資料によって、それは明らかにされていた。
帝国貴族の農業軽視に合理性はない。そこにあるのは、不合理な嫌悪感に基づいた価値観である。
それでも、なお、ナコル・フーバーは声を上げる。父であるフーバー子爵の心を代弁するかのように。
「帝国中央貴族の価値観が、帝国を害する悪であるというのですか?」
「帝国が富まぬようにする、という思考が悪でないとするならば、我が帝国にとっての悪とはなにかしら? 食料とは人が毎日、必要とする物、決して不要にはならない物なのですから、それを改善し、豊作を目指すことほど帝国を富ませる物はないのではないかしら?」
静かに問い返し、次の瞬間、ミーアは自らの危険性に気付く。
頭の中、意地の悪い顔をした、巨漢の商人の姿がデーンっと現れる。
「いえ……しかし、その考え方はいささか商人的に過ぎるかしら……」
つぶやきつつも、ミーアは思考する。
――これでは、あのシャロークさんのような方にしてやられてしまいますわ。小麦よりも儲かる物、食物より儲かる物があるならば……『帝国を富ませるため』ならば、そちらに置き換えても良いということになってしまう。
危ない、危ない……とつぶやきつつ……ミーアは口を開いた。
「みなさんには、考えていただかなければなりませんわね。我ら、人の上に立つ者が持つべき、正しい価値観とは何か……」
「統治者が持つべき、正しい価値観……?」
「グロワールリュンヌでは、どう教えているのかしら? 貴族とは、どのようなものだと考えておりますの?」
グロワールリュンヌの学生たちは顔を見合わせた。
結局、答えたのは、リーダーであるヤーデン・エトワ・グリーンムーンであった。
「我ら、貴き血筋の者たちは、誇りを持って民の上に君臨し、帝国と帝室を守り奉り給う者である、と」
それは、極めて模範的な答えであった。そして、ミーアが否定しなければならないものでもあった。なぜなら、前時間軸、帝国を滅ぼした貴族の価値観は、それであるからだ。
「ふむ……。いささか具体性に欠けますわね」
「では、ミーア姫殿下は、なんである、とお考えですか?」
ムッとした顔で、ナコルが問いかける。
「そう……ですわね」
ミーアは思う。
あの……断頭台の未来を迎えぬために、どのような国にすればよいのか……。
ベルの生まれる世界が、光で包まれたものとなるためには、どのように振る舞えばよいのか……。
しばし言葉を探すかのような、どこか違う世界を見るかのような……あるいは、遥かな未来の帝国に思いを馳せるかのような……そんな遠くを見つめる目つきをしてから……。
ミーアは言った。
「少なくとも……農業に力を入れることは、正しいことだと思っておりますわ。農地を増やし、食べる物を増やすことは、正しいことだと確信しておりますわ。だって……」
ミーアは静かに瞳を閉じて……。
「今日、食べる物がある。明日も食べる物がある。これほどの幸せがあるかしら?」
地下牢の、あの日の空腹を思いながら、ミーアは問うた。
「明後日、子どもに食べさせる物がある、その次の日も……。それほど心安らかでいられることは、ありますかしら?」
まぶたの裏、あの日ぶつけられた憎悪を思う。
子を失った母親の、あの憎しみの視線を思う。
それから、聖ミーア学園の者たちに目を向けて……。
「共に食べ、共に踊った者たちを見捨てずに済む、その者たちの友を、親兄弟を、切り捨てるという判断をせずに済む……それほどの幸せがあるかしら?」
昨日の、歓迎パーティーの姿を思い浮かべながら……。
「もしかしたら、こう考えるかもしれませんわね。昨日、踊った者たちぐらいの食事ならば、我々で用意できるだろうと……。事実、そうでしょう。けれど、飢饉が起きた時、あなたが友に食べさせるために用意した食料は、その友の家族や、友の友から取り上げたものかもしれない。食料が限られているならば、救える数が限られているならば……あなたたちは、救う者と救わない者とを、線引きしなければならなくなりますわ」
もしも飢饉が起きれば、皇女の特権で、自身の食料は用意できることを、ミーアは知っている。アンヌやルードヴィッヒ、その他大切な人たち、その家族の分も用意できるだろうとは思っている。
では……あの日、町を歩いていた母親は? 馬車の中から眺めた街並み、そこを行く人々は?
たぶん、救えない。それどころか、彼らが食べるはずだった食料を奪い、それにより、自身の食卓を満たすことにすらなるだろう。
それは、断頭台に駆け寄る、恐ろしい行為だ。
その未来が、ミーアにはありありと見えていた。ゆえに……。
「我らは……王侯貴族は……明日食べられる安らぎを我らで独占してはならない。我らは、その安らぎを民にももたらす者。共に食べ、喜びを分かち合う者」
それこそが、断頭台を遠ざける道だ。確信を込めて、ミーアは言う。そして!
「民を安んじて治めることが我ら王侯貴族の成すべきことと、神聖典にも書かれている通りですわ!」
ヴェールガ勢へのアピールを決して忘れることのない、ミーアであった。