第百十二話 エメラルダ満喫する
華やかな音楽が響いていた。
食事が一段落したところで、始まったマイムーン・マイムーン。
それをきっかけとして始まったダンスタイム、その中心で軽やかなステップを踏むのは、言わずもがな、ミーア・ルーナ・ティアムーンだった。
その顔を仮面で隠していても、その身に纏った圧倒的なダンスの腕前は隠しようがないものだった。
まぁ、仮面舞踏会ということを考えると、いささか目立ちすぎという感じもないことはないが……。
――ミーア姫殿下、この会を成功させようと、一生懸命なんだな……。
エシャール・ソール・サンクランドは、そんなミーアに好意的な視線を向けていた。今日のために、自ら進んで、聖ミーア学園の生徒たちにダンスを教え込んだのだ。その姿勢を、エシャールは好意的に見ていた。
……ちなみに、頑張ってダンスしているのは言うまでもなく、プニッツァを食べた分、ダンスで消費しようという魂胆なだけなのだが……。
まぁ、それはさておき、そんなミーアを尻目に、エシャールは会場を歩いていた。
途中、プニッツァを軽く食べ、少しの談笑をしたものの、まだ、ダンスには参加していない。何度か誘われてはいるのだが、その都度、それを断っていた。
「ダンスを一曲、いかがですか?」
唐突に声をかけられる。綺麗な大陸共通語、おそらくは貴族。グロワールリュンヌの学生だろうか。
エシャールは控えめな笑みを浮かべて首を振り、
「すみません。少し疲れてしまったので……」
そうして踵を返して歩きだす。っと、
「楽しんでいるかな?」
聞き覚えのある声に、思わず立ち止まった。
「ああ、兄上……」
思わず言葉にしそうになったエシャールに、シオンは口元に苦笑いを浮かべた。
「仮面舞踏会で互いの正体に繋がることを言うのは、マナー違反だぞ、少年」
そう言って、シオンは顔の仮面をコツコツ叩いた。
「失礼しました」
背筋を伸ばしてから、エシャールは首を傾げた。
「でも、どうかなさいましたか?」
「いや、今日は仮面舞踏会だ。もっと肩の力を抜いて、ダンスをすればいいのに、と思ってな。先ほどから、ダンスの誘いをずっと断っているように見えたものだから」
ほんの少し、声に心配を滲ませてシオンは続ける。
「もしや、サンクランドでのことを気に病んで、禁欲に走っているのではないかと思ったんだが……」
兄の言に、エシャールは慌てて、手をパタパタ振った。
「ああ、いえ、そういうわけではないのです」
かつて、エシャールは、シオンに毒を盛りかけ、父を毒殺しかけた。その罪はあまりに大きく、その咎は容易に消せるものではなかった。
されど……エシャールは、そのくびきからは、すでに解放されていた。解放してくれた人がいたからだ……。
あの時、自分の罪を赦してくれたのは、父と兄で、そう状況を整えてくれたのはミーアだったけれど……でも、それを教えてくれた人は……。
「実は、その……最初にダンスをしたい人がいまして」
少しだけ恥ずかしげに言うエシャール。そんな彼を見て、シオンは驚いた顔をする。
「仮面舞踏会でか? それもまた、少し野暮かと思うが……」
そうは言いつつも、シオンは優しい笑みを浮かべ、
「エメラルダ嬢には、よくしてもらっているようだな……」
「はい……。でも、その……恩返しとか、そういうことだけではなくって……」
わずかばかり迷った顔をしてから、エシャールは言った。
「あの方は素敵な方ですよ、兄上」
胸を張り、真っ直ぐに兄を見つめて、エシャールは言った。
「ミーア姫殿下にも劣らない、とても素敵な女性です。だから……僕が今日のパーティーの最初のパートナーになる栄誉を得たいと思ってるんです」
堂々たる言葉に、シオンは再び驚いた様子を見せるも、すぐに首を振って……。
「仮面をつけているので本人かはわからないが……お探しのご令嬢なら、あちらのほうにいたよ」
シオンの言葉に目を丸くしたエシャールは……、
「ありがとうございます、兄上」
深々と頭を下げて、小走りにその場を後にした。
会場の端、エメラルダは一人で立っていた。そんな彼女に歩み寄る者がいて……。
「お嬢さん、よろしければ、私と一曲……」
「あら、ヤーデン。この姉にダンスパートナーを申し込むとは……ずいぶんと偉くなりましたわね」
チラリと目を向けるエメラルダに、ヤーデンは呆れ顔で肩をすくめた。
「姉上……本日の趣向は身分を明かさぬ仮面舞踏会なのだとばかり思っていましたが……」
小さく首を振りつつ、ヤーデンは続ける。
「踊らないのですか? せっかく、羽目を外せる仮面舞踏会だというのに。それに、ダンスはお好きでしょうに……」
「そうですわね。私の目に叶う殿方が現れれば、踊ろうかと思いますけれど……」
おほほ、と笑う姉に、ヤーデンはため息を吐き、
「なるほど。エシャール殿下が来てくれるのをお待ち、と……」
「なっ!」
あっさりと指摘され、エメラルダは、固まった。
「待っていても来てくれるとは限らないでしょう。ご自分からいけばいいのに」
「だって……」
正論を前に口を閉ざすエメラルダ。
「もしや、余計なことを考えていますか? 『姉上に気を使って、エシャール殿下が受け入れざるを得ないから、自分のほうからはいけない』とか……」
「エシャール殿下は非常に弱い立場にありますわ。私が誘えば、ダンスに付き合わざるを得ないでしょうけど……そんなのは嫌ですわ」
「おお、外交のグリーンムーンらしくもない。自分の希望を叶えるのに有利な状況を利用しないとは……我が姉ながら情けない」
「余計なお世話ですわ。弟、とっとと行かないと、あなたのほうもダンスをする相手がいなくなりますわよ?」
しっし、っと手を振るエメラルダ……だったが。
「あっ、あの……」
「へ……?」
突如の声、反射的に振り返ったエメラルダは……そこに目当ての人物の姿を見つけた。
自分よりも少し小さい身長、仮面で隠した顔に真剣な表情を浮かべて、その少年……エシャールは言った。
「お嬢さん、ダンスを一曲、お付き合いいただけますか?」
「ふふふ、私でよろしいんですの?」
悪戯っぽく微笑んだエメラルダ。であったが、それを真っ直ぐに見つめて……エシャールは言った。
「はい。あなたとダンスがしたいと思って……ずっと探していました」
「まぁ……それは、ずいぶんと熱烈なアプローチですわね」
ちょっぴり驚いた様子の彼女に、エシャールは真面目腐った口調で言う。
「お受けいただけますか?」
差し出された小さな手のひら、なんとも堂々たる誘いに、エメラルダは、一瞬、ほわぁっとなってから……。
「は、はい……喜んで……」
静々と自らの手をエシャールの手と重ねるのだった。
そして、そんな姉たちを見送りつつ……、
「ああ……まぁ、良かったは良かったのか……いや、しかし……我が姉上は、まだ幼いエシャール殿下と同程度の恋愛観ということか……それは、なんだか……いいのか? いや、だが……」
微妙に複雑そうな顔をするヤーデンであった。




