第百十一話 皇女ミーアの放蕩祭り~我が月、我が月よ!~
少女の名は、ニコといった。
セントノエル特別初等部第一期生、年少組に選ばれるという幸運に与った人にして、フーバー子爵に絡まれそうになった際、ドミニク・ベルマンに救われた少女でもある。
仮面舞踏会の日、小さめの仮面をつけた彼女は……こっそりドミニクの後をつけていた。
先日、助けてもらって以降、なにくれと特別初等部の面倒を見てくれる、頼りがいのあるドミニクお兄ちゃんのことを、彼女はこっそりと慕っていた。のだが……。
――お兄ちゃん、かわいそう……。
彼女の視線の先、ドミニクが手持ち無沙汰な様子で佇んでいた。
彼は、プニッツァにばかり人が集まることを危惧し、いつダンスが始まっても参加できるようにと、楽団の近くで待機していた。ベルマン家が手配したこともあってか、時折、楽団の団長らに声をかけ、いろいろと指示をしているようだったが……。
そのやる気とは裏腹に、ダンス会場は閑散とした雰囲気が漂っていた。そもそも、歓迎すべきグロワールリュンヌの学生たちはもちろん、聖ミーア学園の生徒たちも、プニッツァ会場のほうに集まっていた。
――みんな……こっちに来てくれないよ。
それが、ニコは悲しかった。
ドミニクをはじめ、聖ミーア学園の生徒たちがどれだけ頑張ってダンスの練習をしていたか、彼女はよく見ていた。それなのに、こんなにダンスが盛り上がらないのは、あまりにも可哀想だった。
見ていられなくって、彼女はその場を離れ……プニッツァのほうに来た……仕方ないのだ。気になってしまったのだから!
そうして、辿り着いたテーブルで、彼女は見つける。
甘いあまぁい、プニッツァを。
――すごい、美味しそう!
けれど、デザートにあたるそれに手を付ける者はまだいなかったので、それは未だ丸い形を保っていた。それに最初に手を伸ばす勇気は、さすがに少女にはなかった。
――食べたい……でも、どうしよう……。
そうして、きょろきょろ辺りを見回していると……まるで、ニコの助けてほしいという気持ちを感じ取ったように現れたのだ。帝国の叡智ミーア・ルーナ・ティアムーンが!
ミーアはニコのほうを見ると、あろうことか、手ずからプニッツァを切り分けた挙句、お皿に取り分けて渡してくれた。そのうえ、
「遠慮すること、ありませんわよ?」
などと、優しい笑みを浮かべる。それを見て、ニコは思った。
――もしかしたら、ミーアさまなら、あっちのダンスも……。
そう、彼女は知っているのだ。ミーアは、いつだって物事を動かす人だった。
セントノエル学園でもそうだった。ミーアの言葉はいつでも、生徒たちの心を動かし、物事は力強く動き出したのだ。
今だって、きっと……。
そんな彼女の期待に応えるように……ミーアは言った。
「さっ、それでは、ダンスの時間にいたしましょうか!」
気合の入った顔で……そう言ってくれたのだ!
ダンス会場へと向かうミーアに、ニコはこっそりついていった。そして……。
「ふぅむ、いささか、少ないですわね」
そんなつぶやきを聞く。見ると、ミーアはなぜだろう……お腹の辺りをさすっていた。
――あれは……気合を入れてる、のかな……。それにしても、少ないってまさか……。
その言葉の意味を考えて……次の瞬間、ニコはハッとする。
ミーアは、いささか不機嫌そうな顔をしていた。ということは、もしかして……。
――ダンスに来る人が少ないっていうこと……?
せっかく、ミーア学園の生徒たちがダンスのために準備しているのに、グロワールリュンヌの学生たちが来ないから……。ミーアはそのことに不満を抱いているのだろうか……?
ミーアは、堂々たる歩調で楽団のほうへと向かった。
「あっ、これは、ミー……」
っと背筋を伸ばす仮面の少年、ドミニクに、ミーアはしーっと人差し指を立てて。それから、楽団員に目を向ける。
「失礼、みなさん。景気づけに元気の良い曲を踊りたいのですけれど、お願いできますかしら?」
「かしこまりました。なにをお弾きしましょうか?」
「そうですわね……ふぅむ」
ミーアは頬に指を当て、それから、ふとニコのほうに目をやった。
おや? という顔をしたミーアは、そこで、思いついたように……。
「ならば……そうですわね。『マイムーン・マイムーン(我が月、我が月よ!)』をお願いできますかしら?」
朗らかな顔で言った。
マイムーン・マイムーン(我が月、我が月よ!)は、伝統的なダンスだった。
霧と静寂の荒野で彷徨う流浪の民が、神の遣わした導きの月に従い、命の湧水に辿り着いた時に踊った、歓喜のダンスだと言われている。
丸く円を描き、みなで手を繋いで踊るそのダンスは子どもでも踊れる簡単なもののうえ、認知度も極めて高いものだった。
「なるほど、かしこまりました」
楽団の団長が、納得顔で頷くのを確認してから、
「さ、踊りますわよ、みんなで!」
ミーアは笑顔を浮かべて、ニコの手を取った。
「ほら、そちらの仮面の少年も!」
声をかけられたドミニクは、一瞬、躊躇った様子を見せたが……。その手に、なけなしの勇気を振り絞って、ニコは手を伸ばした。
「あっ……」
今日は仮面舞踏会。貴族も平民もないから。
ミーアはそんなニコたちの様子を見て楽しげに微笑み、スキップしながら近くの生徒たちに声をかけていく。戸惑いの表情を浮かべる者たちを次々に呼び集めて……。
「知らない方は、わたくしに合わせて踊ればいいですわ。簡単ですから、すぐに覚えられますわよ。音楽をよく聞いて、一回目はゆっくり行きますわよ。団長さん、お願いいたしますわね」
ミーアの言に応えるように、楽団長が小さく頷き、音楽が緩やかなものになった。
ところで……これは百もご承知のこととは思うがミーアはダンスに関してはすごいのだ。ものすごいのだ! その腕前たるや、一対一で相手に心地よく躍らせることはもちろん、人数が多くなっても変わることはないのだ!
「足運びだけ覚えて。はい!」
みなに見えやすいように、綺麗なステップ。それを見て、おっかなびっくり、ニコはステップを踏んだ。今日までに何度か参加したミーアのダンスレッスンで、ステップの練習はなれたものだった。
「いいですわよ、右回りに、はい、ここで手を打つ」
パンッと手を叩き、
「今度は逆回りですわ!」
ダンスの達人こと、ミーアのセレクションは、まさに完璧であった。
そもそも、野外で社交ダンスをすること自体、とても難易度が高いことなのだ。ゆえに、まず、簡単かつノリの良いもので釣って、テンションを上げることが必要なわけで……。そのことを、ミーアは肌で感じていたのだ。海月の肌は、微細な流れを感じ取れるほど、敏感なのだ。
さらに、賑やかな音楽に誘われるようにして、
「おお、マイムーン・マイムーン(我が女帝、我が女帝よ!)ですね。うふふ、楽しそうなのをやってますね! ミーアお……姉さま」
ベルとシュトリナがやって来た。
ダンスの腕前はそこそこながら、基本練習が好きではないベルにとって、適当に(そのばのノリで)踊れるマイムーン・マイムーンはうってつけのものだった。
プニッツァを食べていた者たちにも次々声をかけ、こちらに呼び寄せるベル。それを手伝うシュトリナ。パティやヤナ、特別初等部の子どもたちも加わり、見る間に、ダンス会場の人数が増えていく。
そして、その流れにグロワールリュンヌの者たちも呑み込まれていく。
そもそも皇女であるミーアが「踊れ! 踊れぇ!」と言っているのだ。いったい、誰が逆らえるというのだろうか。
「おお、ふふふ。増えてきましたわね。では、みなで手を繋いで、踊りますわよ!」
ミーアの明るい声につられるように、みなが踊り出した。
最初、どこか遠慮がちで、戸惑った顔をしていた者たちは、ほどなくして、余裕がなくなっていく。それは、ミーアが徐々に、徐々に、音楽のペースを上げるように指示を飛ばしたからだ。
「もっと速くステップいたしますわよ! ほら、みなさん、しっかりつきてきてくださいましね」
そんな明るい声に合わせて、激しさを増す踊りに、いつしか、みな余裕を失い……頭が空っぽになって……そうして、次第に楽しくなってきた。
賑やかな音楽に乗って、無理やりにでも体を動かしたこともある。それ以上に、なにより、仮面をつけたことで、貴族の身分から自由であったことも大きかった。
次第に年相応の無邪気な笑みが、参加者みなの顔に広がっていって……。
やがて、ぎこちないダンスは喜びの……歓喜のダンスへと変わっていった。
それは、皇女の生誕祭に現れた奇跡の再来だった。
貴族と平民が同じ高さに立ち、一つの食べ物を分け合って食べること……。皇女自らが、その食べ物を切り分け、手ずから振る舞ったこと……。それは、確かにかつてのミーアの放蕩祭りを彷彿とさせるものであった。
されど、同時に、かつての地点に留まらないものでもあった。
みなが同じものを食べ、共に手を取り合い、喜びの踊りを踊る。それは、帝国の長い歴史の中で、ただの一度も実現しなかった光景……。
それを見て、
「おお……これが、これが、ミーア姫殿下が目指す帝国の姿なのか……」
若人たちの邪魔をしないよう……、トクベツな服に身を包み、ひっそーりと小麦畑の中に潜んでいた、どこかの学長(某賢者)が、涙にむせぶことになったのだが……。
彼の多くの弟子たちは、師のそのように、ちょっぴりアレな姿を知ることはないのであった。
マイムーン・マイムーン(我が女帝、我が親愛なる女帝よ!)
それは、伝統的な踊りであった。
そして、女帝ミーアの治世以降、帝国では特別な意味を持つ踊りとなった。
女帝ミーアが帝位を継いだ際、帝国のあらゆる者たちがその踊りに参加し、歓喜の声は帝都を揺らしたという……それは伝説の踊りであった。
以降、ミーアの生誕祭で踊ることが慣例となっていくのだが……。
その踊りの裏にあった、ミーアの切実な想いを知る者は誰もいないのであった。