番外編 義人パティヤナの伝説
セントノエル学園には、各国の文化史を研究する学科が存在している。互いの文化を知り、敬意を持って外交できるように、との願いから、かなり力の入った学科である。
さて、その日の授業でのこと。雑談がてら、教授はこんな話をし始めた。
「大陸には、さまざまな偉人がいますね。筆頭は、ティアムーン帝国女帝ミーア・ルーナ・ティアムーンでしょう。彼女は、自国に富と平和をもたらしただけでなく、国と国とを越えた助け合いの理念を実現した。彼女の功績を知らぬ者はいないでしょう。あるいは、その友となった聖女ラフィーナも、我がヴェールガのみならず、他国でも有名ですね。天秤王シオン・ソール・サンクランドや、その父である善王エイブラム王も歴史を学ぶ者ならばみな知っている偉人と言えるでしょう」
一度言葉を切り、教授は柔らかな笑みを浮かべた。
「一方で、実在が定かではないがらも、根強く人々に語り継がれている人物というのもいますね。例えば、そうですね。帝国の義人パティヤナなんかが、それにあたると思いますが……」
そうして、始まったのは、ティアムーン帝国に伝わる、不思議な伝説の話だった。
それは、女帝ミーアよりも前の時代の出来事。帝都ルナティアの、貧しい一家に訪れた奇跡の物語。
その一家は、絶望に暮れていた。
父はすでに亡く、母もまた病に臥せっているという絶望的な状況。
幼い姉弟は苦労して、町の酒場で働きながら、懸命に薬代と日々の食事代を稼いでいた。けれど、破綻はすぐに訪れる。母の病はなかなか治らず、高価な薬代を出し続けることは難しい。いよいよ、姉のほうが身売りしなければ、この冬を乗り越えられないのではないか……となったある日のこと。
家に、一人の貴婦人が訪ねてきたのだ。
それは、そう、雪がチラつくとても寒い日。後に、女帝ミーアの生誕祭が行われるぐらいの時期のことであった。
貴婦人は、実に変わった人だった。顔を仮面で隠した白金色の髪の女性だったと、伝説には言われている。
貴婦人は、事情を聞くと、必要なだけのお金と薬を手配して去っていったのだという。
「これにはいくつかバリエーションがある。孤児院に訪れるケースや、貧しい老夫婦がやっている傾きかけの商店の場合もあったかな?」
いずれの出来事でも、仮面をつけた貴婦人が、困った人のもとに現れ助けてくれるというものだ。そして彼女は、自らの正体を明かすことはない。
ただ「せめて、お名前を……」と聞かれた時のみ、短く「パティヤナ」という名前のみ名乗って、彼女は去っていったという。
「有名な話だから、知っている人もいるんじゃないかしら? 帝国出身の人は、少なくとも聞いたことぐらいはあるんじゃない?」
教授は笑みを浮かべて続ける。
「これは、実際にそういう人がいた、ということかもしれないけれど、人々の期待が生み出したフィクションに過ぎないという学者もいるわ。国の上に立つ王侯貴族の中にも、貧しい私たちを助けてくれる人がいるんだ、と……市民のそんな願いが生み出した噂話ということね。さらに、このパティヤナ伝説には、一つ興味深いところがあってね。それは……」
さて、ヨハンナを見事釣り上げた日の夜のこと。
宿泊している部屋にて、パティはヤナを待っていた。
今回の旅で、キリルは特別初等部男子チームと一緒に行動しているため、この部屋にはパティとヤナが泊まることになっていたのだ。
「あれ? パティ、なにしてるの?」
部屋に入って来たヤナは、小さく首を傾げた。
ベッドに座り、心なしか真剣な顔をするパティを見つけたためだ。
「……ヤナ、少し、話がある」
「ああ、それは別にいいけど……どうかしたの? あ、もしかして、ブルームーン公爵令嬢を説得するのが上手くいかなかったとか?」
心配そうに眉根を寄せるヤナに、パティは静かに首を振った。
「……それは、難しくなかった」
あっさりと言って、それからパティは立ち上がる。それから、深々と頭を下げて……。
「ごめんなさい、ヤナの名前を、借りた」
「え……?」
怪訝そうな顔をしたヤナであったが、よくよく事情を聞いて、思わず笑ってしまった。
「へぇ、そうか。パティヤナ……。パティとあたしの名前かぁ」
「うん……危なかった。下手をしたら、パティアスとか言ってたかもしれない」
自分の息子にして、愛犬の名前と自分の名前の組み合わせとか……後で思い出したら、悶絶すること請け合いだ。
「でも、勝手に使って、変な名前にしちゃって、ごめん」
そんなパティに、ヤナは苦笑いを浮かべて、
「別に、そんなに変でもないんじゃない? パティヤナ……うん。パティにしては、悪くない命名じゃないかな?」
「……そう。ん? ヤナ、もしかして、私のネーミングセンスが悪いと思ってる?」
「え? や、そんなことないよ? あっ、そうだ。そういうことなら、あたしも使わせてもらおうかな?」
なにやら……結構、露骨に誤魔化されたような気がしないでもなかったパティであったが、それはさておき……。
「使うって……?」
「いや、正体を隠さなきゃいけなくなった時とかさ。パティとあたしの名前を合わせたんだから、別にいいだろ? そう名乗っても」
「それは、別にいいけど……。でも、名前を偽る機会がある?」
眉をひそめるパティに、ヤナは笑みを浮かべる。
「わからないぞ? それこそ、ミーアさまの肖像画を描いたり、小説を書いたりするかもしれないから、その時にペンネームで使うかも……」
「……ヤナが芸術家志望とは知らなかった。その内、作品を見せて」
冗談半分に言うパティであったが……。
「そうだなぁ……あ、そうだ。そういえば、学校に仮面をつけた女の人が歩いてて。あの仮面とか格好良かったから作ってみようかな」
「……仮面が……格好、良かった?」
その独特のセンスは、確かに芸術家向きなのかも? なぁんて考えてしまうパティであった。
「義人パティヤナ伝説の一番不思議なところは、その出現の時期が大きく二つに分かれることです。一つは、賢き皇妃パトリシアの時代。これはわかる。パティヤナの名前は、おそらく時の皇妃パトリシアからとったものでしょうから。だけど、それから下ること二世代。女帝ミーアの時代に、パティヤナは再び現れるの」
教授は、実に興味深い、と微笑んで。
「その出現の時期があまりにも離れすぎている。だから、義人パティヤナが実在するとしても複数人、最低でも二人はいたのではないか、と考えるのが定説となっています。前パティヤナの伝説を真似て、後パティヤナがそう名乗ったということなのかもしれませんが……。それにしては、いささかマイナーな伝説であるパティヤナの名前をなぜ名乗ったのか。あるいは、パティヤナ伝説が民衆の願いが形になったものと考えると、この二つの時代の世相に共通点があるのかもしれません。いずれにせよ……」
っと、生徒たちの顔を見回して、
「そのようなことを考察、研究していくのがこの文化史の授業の醍醐味と言えるでしょう」
そう結び、その教授は授業を締めくくった。
はたして、義人パティヤナは実在の人物であったのか?
前パティヤナと後パティヤナの関係はどのようなものであったのか?
歴史的な定説は確立されることなく。ただ、その名の秘密は、二人の少女たちの胸の内にのみ秘められているのであった。