第百話 兄と弟
ヨハンナが討論会への許可を出したその日の夜。
フリオ・フーバー子爵は、早速、グロワールリュンヌへの手紙を書いていた。開催される討論会に向けて、グロワールリュンヌの精鋭を送るようにとの指示である。
討論会の開催自体は、別に構わなかった。むしろ、望むところという感じだ。
「我がグロワールリュンヌの、帝国貴族の伝統の守護者としての主張をわからせてやる」
静かにつぶやくその胸には、今は亡き恩人たる兄への想いがあった。
「兄が守って来たグロワールリュンヌの名誉を傷つけるわけにはいかぬ……」
彼は知っている。帝国を守り支えるのは、帝室と貴族の作る秩序なのだ。
「初代皇帝陛下の御世より続く、栄光あるこの帝国の伝統を守り奉ること……それこそが、我が兄の意志なのだ!」
そうして、彼は思い出す。
あの日……兄が亡くなる少し前のこと。
彼がまだ二十代の青年だった頃の出来事である。
「シドーニウス兄さん、お聞きしたいことがあります」
その日、彼は兄、シドーニウス・フーバー子爵の私室を訪ねた。
そこは、避暑地に建てられたフーバー家の別荘だった。
翌日、ここに皇太后パトリシアと皇妃アデライード、ブルームーン公爵夫人ヨハンナを迎えることになっているのだ。
「ああ、フリオか。どうかしたか?」
部屋に入ったフリオに、シドーニウスは笑みを浮かべて、
「なにか読みたい本でもあるのか?」
そう言って、室内に目をやった。
部屋には背の高い本棚がしつらえてあり、そこにはぎっしりと本が詰まっていた。中央正教会が出した神学書や、今では異端と呼ばれるようになった学派の書籍、各地の習俗をまとめた書物に帝国の文化史など。
数多の書物は、フリオの知識欲を満足させるのに十分な魅力を持っていたが……今日の彼は、本を求めて来たのではなかった。
フリオはゆっくりと首を振ってから言った。
「なぜ、私を跡取りに指名したのですか? なぜ、妻を取り、子を成すことをしないのですか?」
フリオには、それが不思議でならなかった。兄のシドーニウス・フーバー子爵は、未だに婚儀を結ぶこともなく、自ら子を成すこともなかった。それは、帝国貴族の伝統を重んじる兄には相応しくない行動だった。
「……ううん、効果的だと思ったからなんだが」
シドーニウスは、自らの長い前髪に触れた。それは、兄が考え事をする時の癖だった。
「そうだな……変に情が生まれると思ったから、かな……」
まるで、動物の生態を観察するように、じっくりフリオのことを見つめてから、兄は続ける。
「酷く残酷なことを言うようだが……フリオ、お前と私は血を分けた兄弟ではあっても完全な他人だ。他人だからこそ、情を介すことなく、私のすべてを教えることができると考えたのだ」
兄の言葉は、フリオを失望させることはなかった。貧しさの中から救われたのだ。恩こそあれ、負の感情を抱くなどあり得ない。
ただ、わずかに……心が動いた。それは、そんな兄の期待を裏切ってしまわないか、という緊張……あるいは、怯え。
フリオは、兄に恩義を感じていたし、尊敬もしていたが……同時に言いようのない違和感も覚えていた。どこか底知れぬ異様な雰囲気、畏怖にも誓い感覚は、兄の期待を裏切れないという怯えに繋がっていた。
そんなフリオを見て、兄は……なぜだろう、少しだけ困った顔をした。
「……てっきり、気落ちすると思ったが……」
「そんなことはあり得ません。シドーニウス兄さん。むしろ、兄さんの深いお考えに感銘を受けています」
堂々と答えるフリオに、しばし考え込んでから、
「いや……、そういうやり方もあるか」
なにやら思いついたような顔で、シドーニウスは言った。
「私には役割があるんだ。フリオ」
「存じております。皇帝陛下の教育係。それに、我が帝国の伝統を守ること、非常に重大な務めであると心に刻んでおります」
なにも疑う様子もないフリオに、兄は苦笑いを浮かべる。
「まぁ……そうだ。だが、それだけではないのだ」
「……といいますと?」
「ああ。お前にだけは話しておかなければならないだろう……。先に言っておくが、これは、決して、誰にも話してはならないよ」
そうして、話し始めようとした、まさにその時だった。
コンコン、っとノックの音が響いた。
「失礼いたします。お館さま、皇妃殿下をお迎えする準備のことで……」
入って来たメイドによって、会話は中断してしまう。
シドーニウスは、いったん口を閉じてから、
「いや、そうだな。フリオ、話は皇太后殿下の件が済んでから、落ち着いた時にしよう」
そう言って、笑った。
柔和な……柔和に見える……けれど、どこか寒気のするような笑みだった。理由はわからないが、その時の、フリオ・フーバーには、少なくとも、そう見えたのだった。
「あれは、あの後の兄の運命を無意識に感じ取っていたということなのだろうな……。まさか、あのような恐ろしい火事に巻き込まれようとは……」
フリオ・フーバーは、ゆっくりと首を振る。
「しかし……兄はなにを教えるつもりだったのだろうか……」
兄が伝えようとしていた大切なことを教えられていない……その想いは、フーバー子爵の心にずっと残り続けていた。
「なんにせよ、グロワールリュンヌ校を守らなければ……。我が校の正しさが討論会で明らかになるのは、むしろ、望むところだ」
そうして、彼は手紙に封をした。
そこには、彼が選び抜いた、グロワールリュンヌ生え抜きの精鋭学生の名が記されている。
……ちなみにその筆頭は、グリーンムーン公爵家の令息……つまり、エメラルダの弟の一人だったりするのだが……。さらに、十人の中にはサフィアスの妹などもいたりするのだが……。
まぁ、どうでもいいことなのであった。