第九十三話 仮面の(あやしい)人のお節介
セロとティオーナから離れること、およそ十数歩と言ったところだろうか。小麦畑の観察用に建てられた小屋の陰、そこに怪しげな……実に怪しげな人間が立っていた。
ちなみに、具体的にどこが怪しげかというと、その……、顔につけた薔薇の仮面が、なのであるが……。
っということで、皇女ミーア・ルーナ・ティアムーンの元メイド、ペトラ・ローゼンフランツは、小屋の陰から一部始終を眺めて、頭を抱えていた。
――うう、気まずい……まいったな……。
さて、ペトラは、非常に機転の利く人物である……いや、機転が利く人物であった……というべきだろうか。
面倒事からは距離を置くし、そうそうトラブルに巻き込まれることもない。ひらりひらりと可憐に危機を避け、華やかな花々を行きめぐるその様は、薔薇と言うよりはむしろ,蝶のようだった。
けれど、ここ最近……、それが少しばかり鈍っているようだった。
聖ミーア学園の生徒たちに懐かれてしまったあまりに、面倒事にもよく巻き込まれるようになったし、そもそも、この夏休みの間に実家に帰っていなかったものだから、うっかりミーアと顔を合わせそうになってしまった。そのうえ……。
――ミーアさまと会わないようにって、小麦畑に来てたけど……まさか、こんな場面に出くわすなんて……。
小さくため息を吐いて、ペトラは思う。
――まぁ、このまま、黙って見なかったことにしよう。そうだ、そうしよう……。
っと、かつての彼女であればそうしたのだろうけど……今だって、そうしたいところなんだけど……だけどっ!
「心に、思いを秘め続ける……かぁ」
セロの、下したその決断が彼女に見て見ぬふりを許さなかった。
……彼女には、忘れられない夢があったからだ。
夢、ティアムーン帝国が斃れる夢……あり得ない、荒唐無稽な夢。
その夢の中でペトラはミーアを裏切った。
皇女付きの専属メイドであった彼女は、ミーアに忠節を尽くさなかった。
革命の噂が聞こえて来た時、いち早く白月宮殿を見限り、ミーアを見捨てて、ローゼンフランツ家へと帰ってしまったのだ。
されど、そこも安全ではなかった。
革命の火は呆気なくローゼンフランツ家を焼き尽くし、家族を失った彼女は、命からがら帝都へと落ち延びる。
すべてを失った彼女は、さらに、流行病にかかり、その命は風前の灯であった。
衰弱し、路地に倒れた彼女に救いの手を伸ばしたのは、他ならぬミーアであった。
白月宮殿で保護されたペトラは、しばしの平穏な時を過ごした。されど、それも長くは続かない。燃え広がる革命の火は、やがては帝都を呑み込み、白月宮殿もほどなく落城した。
そして、ペトラは……革命軍に『保護』された。
悪の帝国皇女に虐げられた、哀れな女性として……。
彼女は……彼女は言えなかった。
自分がミーアに助けられたということを……。
ミーアを庇えば、彼女自身の身も危なくなる。ペトラは帝国中央貴族、ローゼンフランツ伯爵家の令嬢だからだ。
それに彼女が弁護したからといって意味もなかった。すでにミーアの運命は決められていて、助けられる道は閉ざされていたのだ。
ここで、それを言っても意味がない。ミーアがかつての専属メイドの命を救おうとしたからといって、何の弁護になろうか……? 黙っているのが得策だ、と。
もっともらしい正論、都合の良い言い訳が幾重にも心に浮かんでは消え、ついに彼女は言えなかった。その口を開くことができなかった。
それが、一生背負うことになる鋭い呪いの棘であると気づきながらも……。
その後……革命軍から放逐されたペトラは、新月地区の教会に流れ着いた。
運良く病から生き残った彼女は、そこで、孤児たちの面倒を見ながら余生を過ごすことになった。
生涯、誰にも、その罪を告白することはなかった。
誰かに言えば、憐みはもらえただろう。
神父さまに言えば、赦しをもらえたかもしれない。
シスターに言えば、慰めてもらえたかもしれない。
……あるいは、誰かが裁いてくれたかもしれない。
彼女の罪悪感を和らげてくれるかもしれない。
それだけは、駄目だと思った。
唯一、自分を赦すことができるのは、裏切ってしまった人……ミーアだけだと思ったから。
だから、ペトラは口を閉ざした。
自らの罪悪感を決して薄れさせることのないように、ただ、その想いを自らの胸に抱き続けて……。
それは、そんな贖罪の人生の……夢だった。
――まぁ、ただの夢なんだけど……。
結局のところ、彼女がミーアに会いづらいというのも、その夢によるものだった。現実にあったことではない。だから、とりあえず、謝ってしまえば楽になるのだろう……けれど、さりとてそれは夢のこと。どうにも伝え難いわけで……。
それに「ミーアさまがわからないことを、勝手に謝って気持ちを楽にしようとしてるんじゃ?」なぁんてことも思ってしまうわけで……。
実に不可思議な、それは呪いのような気持ちだった。
そして、そんなペトラだからこそ、セロを放っておくことはできなかった。
「正直、ルドルフォン家とか、どうでもいいんだけど……」
なぜだか親しみを覚えてしまう新月地区の孤児院出身の子どもたちとは違って、田舎者のルドルフォン家の人間とは距離をおくつもりでいたのだが……。
しばし待ち、セロが去るのを見送ってから、ペトラは小屋の陰を出た。
ううん、っと体を伸ばしつつ……。
「さて、どうしようかな……」
セロの気持ちはよくわかるし、思いを告げないという選択も理解できるものだった。あれは、賢い選択と言えるだろう。
けれど、あれは、違う。あれは、ペトラの罪とは違う性質のものだ。厄介な感情ではあるだろうけど、慰められ、励まされても許される類のものだ。だからこそ、なんとかしてあげたくもあり……。
「あのお姉ちゃんがやってあげれば楽だったのに……うーん、弟くんの意地とかなのかな? お姉ちゃんにばっかり頼ってられない、みたいな……」
誰か、適当な者がそれをしてくれればいいのだが……しかし、その役割を自分がやろうとは思わない。
なぜって……もちろん、面倒そうだからだ!
基本的に厄介事には近づきたくないペトラである。
「うーん、誰か適当な……あっ!」
その時だ。彼女の目に映ったのは、小麦畑のほうにやってくる教師の姿だった。黒い髪をまとめ、スラリと背を伸ばして歩いてきたのは……。
「アーシャ姫殿下……」
ペルージャン農業国の第二王女にして、教師も務めるアーシャ姫だった。
ペトラのほうを見たアーシャは、軽く驚いた様子で、あら、と声を上げた。それでペトラは思い出す。
――あっ、そういえば、仮面付けっぱなしだったっけ……。
そうして、仮面を外して……。
「私です。ペトラ・ローゼンフランツです」
「いや、それはわかるけど……」
バレバレだったっ!
「畑のほうに来るなんて、珍しいですね。ペトラさん」
「あー、あはは……」
基本的に、ペトラは農作業には参加していない。帝国中央貴族のご令嬢で、小麦畑に興味を示すなど、よほどの変わり者だけだろう。まぁ、あのミーアの顔が描かれた小麦畑はちょっと面白いと思ったが……。
「こんなところでなにを?」
小さく首を傾げるアーシャを見て、ペトラは考える。
アーシャ姫……帝国貴族から蔑まれるペルージャン農業国の姫にもかかわらず、帝国中央貴族出身のペトラにも気さくに話しかけてくれる人。内心はわからないまでも、普通に接してくれる、心の穏やかな女性。
ついでに、セロとも研究を通して親しくしているし、ミーアが自らスカウトした、信頼に足る人物でもある。
――ちょうどいいかな?
ペトラは軽い気持ちで思う。
なにより、アーシャは教師だ。生徒のケアをする責任があるはずだ。
内心で、うんうん、っと頷きながら、ペトラはニッコリ笑みを浮かべた。
「あの、アーシャ先生、実はご相談したいことがありまして……」
言いながら、ペトラは思う。
――それにしても、教師って大変だなぁ。ふふふ、ただの生徒で良かった。
などということを、うっかり思ってしまったペトラであるのだが……。
そんな彼女は数年後、聖ミーア学園の教師として、正式にスカウトを受けてしまったりすることになるのだが……。
それはまた別の話なのである。




