第九十二話 彼は選び、進んでいく
さて、ミーアがせっせと悪だくみに勤しんでいた頃のこと。
ティオーナ・ルドルフォンは弟のところに急いでいた。
どうやら、この時間は、ミーア二号の小麦畑の様子を見に出ているらしい。
……例の、あの……ミーアの顔が描かれたロクでもない畑である。
学園の敷地を出て、早足で畑のほうへ。っと、どこか、心ここにあらずな様子で小麦畑を見つめるセロが立っているのが見えた。
一瞬、声をかけるのを躊躇ってから、ティオーナは口を開いた。
「セロ……」
「ああ、姉さま、来てたんだ」
ハッと顔を上げたセロはティオーナのほうを見て小さな笑みを浮かべた。
「ええ。いつ見ても、見事な小麦畑ね」
そうして、ティオーナは聖ミーア学園自慢の小麦畑を眺めた。憂いを帯びた顔で……ミーアの顔の描かれたロクでもない小麦畑を……。
……実に、こう、シュールな光景であった。
「ミーア二号小麦、春にも蒔いたのね」
ルドルフォン辺土伯領では、秋に種を蒔き、冬を越えて、初夏に刈り取っている。それからしばらくの間、畑を休ませるのだが、どうやらここでは、その後でもう一度、種を蒔いたらしい。
「そうなんだ。試しにね……」
「いい具合に育ってるみたいね」
そよそよと揺れるミーアの顔……もとい、小麦の葉を見つめて、ティオーナは言った。対して、セロは首を振った。
「まだ、なんとも言えないんだ。ペルージャンには、こういう畑を酷使するようなやり方だと却って収穫量が減るって話もあって。だから、その実験でもあるんだ」
楽しそうに話すセロに優しい笑みを浮かべてから、ティオーナは言った。
「セロ……大丈夫?」
「ん? もちろんだよ。少し忙しいけど、やりがいがある仕事だし、すごくいい勉強させてもらってる。ルドルフォン領のみんなにも、きっとすごく役に立つと思うよ」
「そう……」
そこで、一度言葉を切って……、かすかな逡巡の後、ティオーナは言った。
「ミーアさまと、ダンスしたんでしょう?」
その問いかけに、セロはピクッと身じろぎして、それから黙って頷いた。
「ミーアさま、ダンスが上手いって褒めてたよ」
「ふふ、たぶんミーアさまとダンスをしたら、みんな上手くなっちゃうんじゃないかな?」
ようやく、セロはティオーナのほうに体を向けた。まるで言葉を探すようにしばらく黙ってから……意を決した様子で、彼は言った。
「ねぇ、ティオーナ姉さま。やっぱり、僕は……ミーア姫殿下が好きみたいだ」
弟の、勇気を振り絞った言葉に、ティオーナは息を呑んだ。
「セロ……それは……」
「ふふ、そんな顔しないで。姉さま。僕だってわかってるよ」
寂しげに微笑んでから、セロは首を振った。
「想いを伝えたりとか、そういうことはしない。そんな大それたことは、全然、考えてもないよ。ただ、姉さまは、僕のことを心配してたみたいだから、はっきり言っておこうと思って……」
皇女殿下に、田舎貴族たる辺土伯の長男が恋心を伝える……そんなことをすれば、どうなるか……。中央貴族からは怒りを買うだろう、もしかしたら、皇帝からも叱責を受けるかもしれない。
けれど、それはあくまでも普通であれば、というだけで……。
「でも、ミーアさまは、きっと受け止めてくれるよ? セロの気持ちもきちんと受け止めて、それで、答えをくれると思う」
ミーアへの揺るがぬ信頼があった。そして……それ以上に、ただ一人の弟への情があった。
自らの想いを胸に秘め続けるのは、たぶん、きっと辛いことだ。その想いを味わわせたくはない、とそう思って……。でも……。
「あの方を困らせるような、そんなことはしたくないよ。それに……ええと、言葉にするのは難しいんだけど、そういうことじゃないんだ。そうじゃなくて……」
セロは、少しだけ考えてから……。
「あの方は、花みたいなものだと思うんだ」
「花……?」
きょとん、と首を傾げるティオーナに、セロは頷いた。
「うん、そう。花……。美しく咲き誇る花だ。でも……僕は違う。僕は姫殿下と同じ花になって咲き誇ることはできない」
ギュッと拳を握りしめて、セロは言う。
「僕は花が朗らかに咲き誇れるように、その備えをするのが性に合ってるんだ。遠くから花を見守り、環境を整える……それが僕の役目であり、幸せなんだ」
セロの、その言葉に、その顔に、ティオーナは思わず息を呑んだ。
弟は、今まで見たことのない顔をしていたから……。
その表情は、悲嘆に暮れてもいなければ、投げやりな諦念に身を委ねた人のものでもなかった。かつての弟に見ていた弱々しさの欠片もなかった。
それは、自ら歩む道を見定め、選び、踏み出した若者の顔だった。
――そうか……セロは、選んだんだ……。ミーアさまに言わないことを、自分で……。
心のままに行動することの影響と、自らの肩にかかっている重責、はたさなければならない役割……そして、未来に残すべき研究……。
それらすべてを鑑みて、選んだのだ。
『言わない』ということを……。
「心配してくれてありがとう、ティオーナ姉さま。でも、大丈夫だから。僕は大丈夫だから」
そうして、セロは穏やかに笑った。その笑みを見てティオーナは、けれど、キュッと胸が苦しくなった。
「さ、もう行って。僕はまだもう少し、畑の様子を見ないといけないから……」
踵を返そうとするセロに、ティオーナは声を上げる。
「セロ、一つだけ。それでも一つだけ覚えておいて。ミーアさまは、民を大切にする。自分以外の他者を大切になさる方だけど、決してご自分を軽んじる方ではないっていうことを……」
「え……?」
きょとん、と首を傾げるセロに、ティオーナは続ける。
「ミーアさまは、他者もご自分も尊ばれる方。そのことを大切にしている方だと思うの。だからセロも……。他のことを優先させて、自分の気持ちをないがしろにするような、そんなことを続けたらダメだよ」
誰にも言わず、その気持ちを自分の中で殺すということは、誰からの励ましも、慰めすらも受けられないということ……。ただ一人、傷ついたことすら誰にも伝えずに、抱え込むということ……。
「一人で背負い込むことはないんだから……。私は、いつだってセロの味方だから……。それは、忘れないで」
ティオーナは真っ直ぐにセロの顔を見て言った。
……そして、そんな姉弟のやり取りを物陰からひっそりと眺めている人物がいた。
それは、実に……実に怪しげな風貌の人物で……。




