第八十八話 パティ、確信してしまう!
部屋に入り、紅茶を一口。
それから、パティは静かに口を開いた。
ヨハンナから聞いた話を……。
あの日……皇太后パトリシアが没した日に何があったのかを。
「あれは、まだ夏が始まったばかりの日……。確か、七つ月の八日じゃったろうか。妾は、皇妃アデライードさま、それに、皇太后パトリシアさまとともに、フーバー子爵領の別荘に行ったんじゃ。大きな川沿いの、とても美しい場所でな。涼むにはもってこいの場所で、何度か、パトリシアさまとも行ったことがある場所じゃった」
フーバー子爵領……聞いたことのない場所だった。これから先、馴染みの場所になっていくのだろうか、と少しだけ不思議な気持ちになる。
「あまり知られてはおらぬが、パトリシアさまは釣りがご趣味でな。近くに川がある、釣りにはもってこいの場所であるから、さぞやお喜びだろうと思うておったが……その日はやけに沈んだ顔をしておられてな」
釣り……趣味になるのだろうか……? と先日の釣り大会のことを思い出しつつも、パティは注意深く、ヨハンナの話を分析する。
避暑地に遊びに行っても沈んだ様子だった……この目の前のヨハンナにさえも見て取られるほどに沈んでいた……とするならば……。
――私は、私が死ぬことを知っている。知っていてなお、それは回避できないものとして、そこに向かっているんだ。
とするならば、それは未来の情報を得た自分……すなわち今の自分の将来の姿と言えるのだろう。そして、その将来の自分は危機を回避することなく、きちんと死を受け入れたのだ。
この未来を変えないために、パティは死の運命を受け入れるつもりではいる。けれど、それが何の意味も見出せない死であったなら、それをすんなり受け入れられるとも思えないのだが……。
――私は、火事で死ぬことに、なにかの意味を見出したのかな……。
じっくり考えている間にも、ヨハンナの話は続く。
「川のほとりでのんびり過ごしてから、夜はフーバー子爵の別邸で、軽く帝国の歴史について学び、それから眠ることにしたのじゃ。そして……その夜、館は火に包まれた」
ヨハンナは暗い目をして続ける。
「火の回りは恐ろしく早かった。妾たちはあっという間に煙と炎に包まれた。パトリシアさまの冷静な指示がなければ、三人共に死んでいたところであろう」
恐らく……、その時の自分は火事が起こることを知っていたのだろう、とパティは考える。そして、そうなった時のために、屋敷の配置をきちんと頭の中に入れていたのであろうとも。
「けれど、あと一歩……。もう少しで脱出できるというところで、パトリシアさまと分断されてしまったんじゃ……。天井と床が崩れ、下は火の海。飛び移ることは難しい。そのような状況で、パトリシアさまは、妾に言われたのじゃ……。帝国を頼む、と。マティアス陛下を、アデラを、そして生まれてくる子を頼む、と……」
グッと拳を握りしめ、ヨハンナは続ける。
「それから、パトリシアさまは、炎の中に消えて行かれたのじゃ。妾たちの未練を断ち切るように……。妾は、なんとかアデラを守って、館を脱出したのじゃが……」
悔しげに唇を噛んで、ヨハンナは言った。
「今でも思うことがある。確かにアデラは体が弱く、だから、妾が守りながら脱出しなければならなかった。しかし、他にもできたことがあるのではないか、と。パトリシアさまをお守りすることができたのではないか、と……」
それから、ヨハンナは小さく首を振った。
「結局、その火事では、パトリシアさまと、館の主たるフーバー子爵、妾の師匠も犠牲になられたのじゃ」
目まぐるしく開示された情報を、パティは一つ一つ冷静に分析する。
――私と、同じ時に亡くなった人……。これは、偶然?
そうかもしれない。しかし、そうでない可能性もかなり高い気がする。
――フーバー子爵邸の火事……そこで、私が死ぬ……。
正直、実感は湧かなかった。
何十年も後のことだし、火事で死ぬと言われても想像がつかなかった。
そもそも、蛇として生きるように育てられたのに、夫を得て、子を成し、子の妻まで見ている。そこまで生きること自体が、想像もできないことであった。
――それにしても、こんな大切なことを、あっさりと話してしまうなんて……。
この情報は、実際のところ、かなり危険なものだ。
なにしろヨハンナは「自分が皇太后を助けることができなかった」と言っているのだ。確かに、皇妃の命を守る必要があったとはいえ、政敵にでも知られれば悪用されかねない情報だ。
それを、こんなにも他愛なく……。
パティは改めてヨハンナの顔を見る。薄っすら涙ぐみつつ、グッと拳を握りしめるヨハンナ。
ハンネスの隠し子……などと言うやや雑な言い分を信じ、なんの警戒もなく、皇太后の死亡に至る経緯をあっさりと話してしまう……その事実を鑑みて、パティは思わず唸ってしまう。
――ああ、これは、やっぱり……。ヨハンナさんは……。
事ここに至って、パティは、抱いていた疑念を確信へと変える。
なにをか? それは……。
――たぶん、この人……、ヨハンナさんは、武闘派だ……。
そう……ヨハンナの身にまとった、老獪にして近づきがたい雰囲気、けれど、その分厚いベールの下に、隠しきれない本来の気質。
――シンプルかつ素直な性格……。会って間もない私にすら、簡単に読み取れてしまう、隠しきれない素の感情……この単純さ……間違いない。この人は、純然たる武闘派だ!
そして……パティは内心で頭を抱えた。
なぜ、自分が誤解をさせるようなことを言ってしまったのか……気付いてしまったからだ。すなわち……。
――たぶん、私は、この人のことを敵だと思わなかった。素直だし、単純でとても読みやすい。きっと悪い人じゃない。もしも私が蛇の立場なら、隠しごとができなさそうな人は味方にしない。でも……。だからと言って、彼女を仲間と……協力者とすることも難しい。蛇に、私の真意を知られるわけにはいかなかったから……。
ミーアの時代に至る状況を整えるためには、決して蛇に心の内を知られるわけにはいかない。だから、きっと打ち明けられなかったのだ。善良で、頼れるかもしれなかったヨハンナに、言うわけにはいかなかったのだ。
蛇と思しき男が教育係としてついているヨハンナに……どこに蛇が潜んでいるか、判然としない状況では、胸の内を明かすことが、できなかったのだ。
もし仮に、シュトリナのような人が過去にいれば……。最初の内は疑ったかもしれないが、いざ味方だとわかれば、きっとすべてを打ち明けただろう。口が堅いし、なにを言ってよいか、なにを口にしてはいけないのかをわきまえているからだ。
けれど、武闘派は……煽られれば簡単に秘密を口走ってしまう恐れがある。
ゆえに、言えなかった。蛇にまつわること、未来にまつわること、何一つ、言えなかったのだろう。
――でも、それでも、言わずにはいれなかったんだ。別れ際に帝国を頼むって。ミーアお姉さまとそのお母さまのことを頼むって……。
それは隠しに隠し続けたパティが、生涯の最期でお願いしたかったこと……。
その結果……っ!
「ゆえに、妾は帝国の文化を守らねばならぬ。聖ミーア学園で教えているような、古きしきたりに反する教えを妾は止めなければならぬのじゃ!」
ヨハンナは曲解した。あるいは、別の蛇によって曲げられてしまったのかもしれないが……。ともかく、曲解し、頑なに凝り固まってしまった。
それが、真実だった。