第八十七話 ミーア式高等算術
料理学部に寄った後、ミーアは宿泊している部屋へと向かっていた。
教室と、ミーアたちが宿泊している建物とは繋がってはいないため、一度、外に出る必要があった。
青々とした芝生をザクザク音をさせて歩くと、心地よい緑の香りが匂い立つ。
爽やかな夏の空は、ミーアの晴れ晴れとした気持ちを表すように雲一つない青空だ。降り注ぐ日に軽く目を細めながら、ミーアはつぶやく。
「ふふふ、上手くいって良かったですわ。キースウッドさんも快く引き受けていただけましたし……」
なぁんて、ほくそ笑むミーアに、アンヌが心配そうな顔をする。
「でも、ミーアさま、食べ過ぎは……」
「アンヌ……だからこそ、ですわ」
ちっちっち、と人差し指を振り振り、ミーアが言った。
なんというか、こう……見る人が見たら……それこそ、キースウッドやサフィアス辺りが見たら、非常にイラァッとするような、余裕たっぷりの顔で。
「だからこそ、新しいプニッツァを開発しようというのですわ」
偉そうに胸を張り、ミーアは言う。これまた見る人が見れば、という態度なのだが、生憎とここにいるアンヌの目には、それはひどく頼りになる態度に見えてしまう。
「それは、どういう意味なのでしょうか?」
「ふっふっふ、いいですこと? アンヌ。プニッツァは、確かに食べ過ぎると体に悪そうですわ。たぶん、タチアナさんに怒られてしまうであろうこと、想像に難くありませんわ。けれど、ここの料理学部のみなさんならば、作ることができるのではないかしら……体に良いプニッツァを!」
「体に良い、プニッツァ? あ、もしかして、それでキノコを……?」
腕組みしつつ、ドヤァ顔でミーアは頷く。
「ええ、その通りですわ。リーナさんが以前言ってましたの、キノコの中には体に良いものがあると。さて、ここで高等算術の問題ですわ。もしも、プニッツァが体に悪いもの……プラスであったとしても、その上に体に良い食べ物、すなわち帳消しにするマイナスをのせれば、どうなるかしら……?」
「……っ! まさか、悪いものが相殺される……ということですか?」
愕然とした様子でつぶやくアンヌに、ミーアは格好よくウインクして。
「ええ、そのとおりですわ! 一マイナス一はゼロ。その応用ですわ。一の良いものを食べることで、一の悪いものを食べることを相殺する。すなわち、結果は……」
「なにも食べてないことになるっ!」
ハッと目を見開いたアンヌ。よくできました、とばかりに、ミーアはパチパチ拍手した。
「わたくしは、さらに考えを進めておりますわ。むしろ良いものを二食べれば、多少体に悪い甘いケーキを食べても良いのではないかしら? 体に良いプニッツァを二枚食べれば、甘い甘いケーキを食べる余裕も生み出すことができるのかもしれませんわ」
ミーアは、タチアナが聞いたら気絶してしまいそうな、実に、良からぬことまで言い出した!
「そう……なのでしょうか。でも……う、ううん……」
アンヌは、混乱に目をグルグルさせている。
「もちろん、運動も頑張りますわよ? それならば、この理屈が多少間違っていたとしても、問題ないのではないかしら?」
大いに間違っていたら問題大ありなのだが、その可能性は考慮しないミーアなのである。そんなミーアに押されるように、アンヌは……。
「確かに……そう、なのかもしれません。特別初等部の子どもたちも楽しそうでしたし……それでいい、のかも……?」
ついに押し負けてしまう!
……だが、ミーアには一つだけ見落としていることがあった。
それは、とても基本的なこと……。自らが蒔いた種は、自らが刈り取らなければならないということ。
すなわち、いくらアンヌが納得してくれたとしても、食べ過ぎた反動は確実に自分に帰ってくるのだ、ということだ。けれど……残念ながら、それに気付くことはなく……。
「そうですわ。ついでに、ティオーナさんもお料理会に誘うのはどうかしら? お野菜も体に良いと言いますし、たっぷりプニッツァの上にのせれば、その分、たくさん食べられ……あら?」
と、そこで、ミーアは気が付いた。
ミーアたちの宿泊している部屋の前に、一人の少女が立っていることに。
「あれは……パティ?」
心なしか肩を落とし、立ちつくしていたのは、ミーアの祖母であるパティだった。どこか思いつめた顔をしてうつむいているパティに、ミーアは首を傾げる。
「パティ、どうしましたの? こんなところで……そんな顔をして」
小走りに近づき声をかける。っと、そこでミーアはハッとする。
普段、表情の変化が薄いパティが……、いつでも沈着冷静な祖母パティが……こんな表情をするとは……。ただ事ではないと気付いたのだ。
パティは顔を上げ、ミーアのほうに目を向ける。けれど、すぐに、ううっと頭を抱えてしまう。
「ちょっ、どうしましたの、パティ。ヨハンナさんになにかされましたの? それとも、あ! あの、フーバー子爵とか言う野郎に……」
などと、思わず、姫らしくない言葉がチラリしかけるが、パティはゆるゆると首を振って、
「……ヨハンナさんとお話はできた。フーバー子爵や従者に邪魔されることもなかった。それに、ヨハンナさんがどうして、あんな感じなのかは、だいたいわかった、けど……」
パティは困り切った顔で言った。
「どうしよう……どうすればいいのか、わからない」
「な、なるほど。わかりましたわ。とりあえず、ここでは落ち着けませんし。部屋の中に入りましょうか。アンヌ、申し訳ありませんけれど、気分を落ち着けるお紅茶を持ってきていただけるかしら?」
「はい。かしこまりました!」
ビシッと背筋を伸ばし、走っていくアンヌを見送ってから、ミーアは改めてパティから事情を聞くことにした。
ちなみに、ミーア式高等算術がイマイチ釈然としなかったアンヌは、タチアナに検算をお願いし、その結果、いろいろと大変なことになったりするのだが……。
まぁ、それは別の話である。