第七十七話 失われた人たち
昼食会が終わった後、ヨハンナは、賓客用の部屋に通された。
それなりの部屋とはいえ、大貴族の夫人に対しては、いささか粗末な部屋であった。が……。今はそんなことはどうでもいい。
「ふぅ……。してやられたわ」
ベッドに腰かけ、深々とため息を吐く。
「まさか、あのような……。ふふふ、確かに面影はあったが……あのような小娘を、あの方と見間違うとは……。我ながら老いたものじゃ」
苦笑いを浮かべつつ、ヨハンナは首を振った。
その時だった。
コンコン、と控えめにノックする音。それに続いて、自らの専属メイドに連れられて入ってきたのは、フーバー子爵だった。
「失礼いたします。ブルームーン公爵夫人」
深々と頭を下げてから、部屋の中にチラと視線をやって……。
「帝国最大の門閥、ブルームーン公爵のご夫人にこのような粗末な部屋を当てるとは……。この学園の者どもは、まったくけしからんことでございます」
「よい。陛下や皇女殿下も同じ部屋だと聞いておる。ならば、妾が文句を言うわけにもいくまい。そちも余計なことは口に出さぬことじゃ」
片手をひらひらと振ってから、ヨハンナは言った。
「しかし、先ほどはすまなんだな。少々、取り乱してしまったようじゃ」
「さようでございましたか。いえ、ですが、お気持ち、お察しいたします。皇帝陛下と公爵夫人との食事会にあのような……民草の子が紛れ込むなど、言語道断。唖然としてしまうのも理解できようというもの。そもそも……」
っと、ヨハンナは片手を挙げてフーバー子爵を黙らせる。
「それもまた、陛下が許されたことじゃ」
「ですが、陛下は、ミーア皇女殿下に、いささか寛容が過ぎるのではありますまいか? この聖ミーア学園もそうですが、あのように、民草の……」
「よせ……と言ったのがわからぬか?」
ヨハンナの視線が、スゥっと鋭さを増す。射抜かれたフーバー子爵は、ビクンっと背筋を伸ばし、頭を下げる。
「これは、出過ぎた真似をいたしました。ですが、私は不安なのです。このままでは、この帝国の古き良き慣習が変えられていってしまうのではないかと……」
そこで、フーバー子爵は眉間に皺を寄せる。
「我が義兄の守ってきた、帝国の伝統が変えられてしまうのではないかと……不安なのです。あの日、あの炎の中に消えるまで、義兄が守って来たものが……変えられてしまうのが」
つぶやくようなその声に、ヨハンナは静かに目を見開いた。
「そうじゃな……。思えばあの日、妾同様に、そちもまた大恩ある師を失ったのであったな」
フーバー子爵は、神経質そうな顔を、フッと緩めて、懐かしげに目を細めた。
「あれから、ずいぶんと長い時間が過ぎてしまいました」
感慨深げなつぶやきに頷いて、ヨハンナは言った。
「妾も、そちの師には世話になった。異国に生まれた妾に、この国の貴族の常識を叩きこんでくれた。感謝している」
四大公爵家の一角、ブルームーン公爵家に嫁入りするため、ヨハンナを教育したのは、他ならぬ、フーバー子爵の師にして、彼の年の離れた義兄でもある人であった。
厳格な、決して揺らぐことのない貴族のしきたりを守りながらも、穏やかな物腰と柔らかな笑みを欠かさない……なんとも言えぬ魅力を持った男だった。
だが……、彼は死んでしまった。
あの日、大火事の日……。皇太后パトリシアと共に……。
「大恩ある方々に応えるために、これまで懸命に生きてきた。ここで、その生き方を曲げるわけにもいかぬであろうな」
「無論です。永劫、このティアムーン帝国は、我ら貴き血筋の者によって指導されなければなりませぬ。上は上で、下は下。定めししきたりを破るは混乱のもと。長く続く帝国の文化を守ることこそ、国の安寧に繋がりましょう」
フーバー子爵はそう言ってから、そっとヨハンナを見つめる。
「時に、やはり討論会には反対なさるのですか?」
「ふん、別に正面から受けて立っても良いとは思う。我が中央貴族の子弟たちが、どのようなことであれ、民草や辺土貴族の子弟に負けることは無かろう。ただ、この聖ミーア学園には、あのサンクランドの第二王子殿下がいるというではないか。その格に勝てる学生はおるまい?」
「それは、確かに……」
「それに、ミーア姫殿下は、たいそう知恵の働くお方と聞く。その思惑に乗っても良いものか、どうなのか……」
腕組みしつつ、ヨハンナは首を振った。
「いずれにせよ、数日は、この学園に滞在することとなろう。そちも、そのつもりでいるがよい」
「はっ。ヨハンナさまの、ご随意に」
姿勢を正し、部屋から出て行ったフーバー子爵を見送ってから、ヨハンナはふとつぶやく。
「しかし、あのパトリシアさまに似た小娘……あれは偶然か……? それとも、妾に備えて、用意していたということか……。だとすると、ミーア姫殿下も、なかなかに悪辣というものじゃが……」
っと、そこで、ヨハンナは小さく笑った。
「ふふふ、もしかすると、この後でアデラに似た娘でも出てくるのかな……。もしもそうならば……」
どこか遠くを眺めるような瞳をして……。
「少し楽しみでもあるな……」
上機嫌に鼻歌でも歌いだしそうな……、年若い乙女のような表情で。