第七十話 パティ、幻惑されてしまう……!
「ならば、なにも問題はありませんわ。パライナ祭にどちらの学校が出るのが相応しいか、ぜひ、討論会を開いて決めることにいたしましょう」
凛と言い放つミーア、その顔にヨハンナは、在りし日の恩人、パトリシアの姿を見た。
――ああ……ミーア姫殿下は、確かにパトリシアさまの面影をもっておられるようじゃ。
親友たるアデライードはまだしも、マティアスを経由している点が少々不安ではあったのだが……。ヨハンナの目に映るミーアは、思慮深く聡明で、パトリシアのような深い知性を身にまとっているように見えた。
ゆえに……ゆえにこそ……彼女は悲しかった。なぜなら……。
――ミーア姫殿下のなさろうとしていることは、パトリシアさまの御心とは違う。そのはずじゃ……。
皇太后パトリシアの想い、託された願い。
ティアムーン帝国を、アデラを、生まれてくる子を守ってほしい、と……。
――アデラの子を……ミーア姫殿下を守るためには、この国の枠組みを守ることこそが肝要。連綿と受け継がれてきた、しきたりと文化を守ることこそが、なによりも大切なことじゃ。
ヨハンナはもともと異国人であった。だからこそ、違う国の形というものを知っていたし、だからこそ、この帝国の在り方がおかしいことにも気が付いていた。けれど、それゆえに「これこそが帝国が帝国たる所以、国独自の文化で、国としての枠組みなのだ」と言われれば、それに逆らうことはできない。
帝国貴族であれば必ず持っているであろう常識、反農思想がいかに愚かなことだと思っても「そう感じるのは自分が異国人だからである」という結論に達してしまう。だからこそ、ヨハンナは、その「帝国貴族の常識」を維持することに心血を注ぐ。
帝国に来た当初、戸惑う彼女を気遣って、いろいろと世話を焼いてくれたパトリシア。その想いに少しでも応えるために……ヨハンナは常に帝国貴族らしくあろうとした。
民草に頭を下げるは帝国貴族の行いではない。されど、皇女の客にならば下げるのが当たり前。ゆえに、なんの躊躇もなく、屈辱も感じずにそれを行うことができる。
この帝国に根付いた文化を、彼女ほど尊重する者はいなかった。だからこそ、彼女はミーアを見つめる。
パトリシアの想いとは違う方向へ向かおうとしている――とヨハンナが信じる――帝国皇女の行いを止めるために、ヨハンナは口を開いた。
「否……じゃな、それは」
ヨハンナの、直感が告げている。武闘派として知られる彼女は、戦士の勘として、ミーアの言に従った時の危険性を敏感に察知していた。理由はわからない、が、言うとおりにしては危険だと……。
「あら……なぜですの? ヨハンナさん。わたくしの話になにか不都合でも……?」
不都合、不整合、不合理……それらのものは、見当たらない。
両校の討論会についても、今までミーアが行ってきた改革についても、実に合理的かつ正論のようにヨハンナには聞こえた。
けれど、同時に、ミーアのしようとしていることは、このティアムーン帝国という枠組みを壊す行いに、ヨハンナには見えていた。
ティアムーン帝国は……育まれた文化は、帝室の血筋を守るための固き城。初代皇帝が子孫の繁栄のために作り上げた絶対のしきたり。
それこそが、長きに渡り帝国を維持してきたものならば、それを守ることこそが、皇女ミーアを守ることに繋がるのだと、ヨハンナは信じた。
だからこそ、彼女は今立ち塞がる。大切な人の孫娘の前に……親友の愛娘の前に。
「仮に……もしも仮に、この学園が民草にとって良き学びの場であったとしても、伝統ある貴族の子弟に良いものであるとも限らぬ。学生同士の交流がグロワールリュンヌの学生たちに、良くない影響を及ぼすやもしれぬ」
その答えに、ミーアは、ぬぅっと呻く。
「ゆえに、討論会には、妾は反対じゃ」
いささか強引に、話を切り上げんとするヨハンナ。その耳に、不意に……。
「……頑な」
小さな、けれど、揺らぎのない声が聞こえてくる。
「なぜ、そんなに頑なに反対を……?」
抑揚の薄い幼い少女の声だ。
普段のヨハンナであれば、聞き流したであろう、子どもの声だ。されど、今のヨハンナには、それは不快だった。
ただでさえ、恩人の孫の、親友の娘の、邪魔をしなければならないところなのだ。心を鬼にして、反対を述べなければならない場面なのだ。
――ブルームーン公爵夫人たる妾に……このヨハンナ・エトワ・ブルームーンに諫言を宣うとは……。いかに、皇女の客人といえど、我慢ならぬ。
彼女は武闘派なのだ。
殴って聞き分けのない奴に言うことを聞かせるスタンス! なのだ。
手元の扇を手に取り、不機嫌に歪む口元を隠しながら、
「うん? 誰ぞ? なにか言ったかえ?」
ジロリ、と周囲に鋭い視線を巡らせる。が……。
「なんぞ、妾の言に、文句でも…………え?」
視線と言葉が、同時に止まる。その先にいたのは、一人の少女だった。
ヨハンナの視線を怒気を受けても、怯む様子もなく、ただただ、無表情に見つめている少女。切りそろえた髪、その色は、皇女ミーアと同じ……あるいは、皇太后パトリシアと同じ……どこか懐かしさを感じさせる色で。
真っ直ぐにこちらを見つめている瞳、その色は静かで冷たい青。見つめられると、心の奥底まで見抜かれてしまいそうな、その眼光に、ヨハンナは確かに覚えがあった。
……気付いていなかった。
先ほどの馬車から降りた時も……この食事会が始まった時も……。まったく眼中になかったから……視界にも入れていなかった。
――あの娘……、あの面影、パトリシアさまにそっくりじゃ。あの者はいったい……。
驚愕に言葉を失ったヨハンナ。パティは、そんなヨハンナの顔をジッと見つめる――プニッツァで汚れた手を、ふきふきしながら……!
……どうやら、パティも、その魅惑の味に幻惑されてしまったらしかった。まぁ、どうでもいいが……。




