第六十話 ミーア姫は怒っていた。ところで余談だが……。
ミーアは怒っていた。このうえなく怒っていたのだ!
それは、目の前で行われた非道に対する義憤……などでは、もちろんなかった。頭を打ってうっかり正義に目覚めてしまった、などということも当然ない。言うまでもないことだが。
……では、なぜかというと――ところで、これは完全に余談なのだが、ミーアはここ数日、非常に鬱憤が溜まっていた。聖ミーア学園での日々は、ミーアの精神力をゴリゴリッと削っていたのだ。
念のためにと訪れたルールー族の村では、今まさに、虹色のミーア木像が量産体制に入りかけているのを、寸でのところで止めた(すごく危なかった!)し、皇女ミーア学なる、ミーアの発言から、その深淵なる思考を探るというトンデモ授業を見学した際には、過去の発言の真意を問われ、引きつり笑顔で答えたり、学生たちの忠義の産物的なナニカの数々に、思わず胃もたれを覚えたり……。
ともかく! 非常に!! 鬱憤が!!! 溜まっていたのだ!!!!
……まぁ、だから、どうということはないのだが、ともあれ……そんなミーアが、
「うう、つ、疲れが取れませんわ。でも、もうすぐランチの時間ですし……食堂であまぁい物をたぁっぷり食べて午後に備えねば……ううぅ……」
そんな、空腹の、ミーアが、見てしまったのだ!
特別初等部の子どもたちを、大人げなくもイジメようとする男の姿を!!!
――くぅっ! この期に及んで、これ以上の問題を起こそうなどと……ばっ、万死に値しますわ!!
ただでさえ、特別初等部の子どもたちが、この帝国で嫌な目に遭ったら一大事なのだ。ラフィーナに知られれば、
「そう。それは、良くないことね……それで、ミーアさん。責任者の方には、きちんと責任を取っていただいたのかしら?」
などと、涼やかな笑みを浮かべながら、ちょっぴり獅子耳がチラリしてしまうかもしれないではないか!
それに、ミニ司教帝ことレアもこの場にはいる。リオネルやユバータ司教など、ヴェールガ関係者もいる以上、誰にどう情報が伝わるかわかったものではない。
あのような非道など、言語道断!
ミーアは、念のため、男の顔を確認……見覚えがないけど、嫌な奴っぽい! 蹴りあげてやっても問題なし、と判断!
正義は我にあり! ちょうど良い鬱憤晴らしに、お尻を蹴っ飛ばしてやりますわ! とばかりに、ズンズン歩み寄っていき……。
「あら。いったい、なんの騒ぎかしら? このようにわが校の前で……しかも、子どもたちの前で……」
穏やかに、いっそ、優しく感じられるほどの口調で、語りかける。
「そのように大声を出すものではありませんわ。客人が、怖がってしまいますわ。この子たちはセントノエルの……聖女ラフィーナさまの寵愛厚き子どもたちなのですから……」
さらりと、厳かな顔で、獅子なる聖女ラフィーナの威光を身にまとう!
「あまり、帝国貴族の品位を傷つけるようなことをするべきではない、とわたくしは思いますけれど……」
今すぐにでも蹴り上げてやりたい衝動を堪えつつ、男を睨みつける。
男は、ああん? っとミーアのほうに目を向けると、直後、ハッとした顔をして……。
「あっ、こ、これは、大変失礼を……ミーア姫殿下……私はっ!」
「ミーア姫殿下、ご機嫌麗しゅう」
男の言葉を遮るようにして、艶やかな女性が進み出た。男のほうに怒りと注意を向けていたミーアは、一瞬、不意を突かれた。
――あら、これは……。まさか、ブルームーン公爵夫人自らがいらっしゃるとは……。これは少々意外でしたわね。
そう思いつつも、スカートをちょこんと持ち上げて挨拶する。
「ご機嫌麗しゅう、ブルームーン公爵夫人」
「ほほほ、お変わりないようで、なによりじゃ。ミーア姫殿下」
上機嫌に微笑んで、ブルームーン公爵夫人ヨハンナは言った。
ちなみに、ミーア個人としては、ヨハンナのことをそれほど嫌ってはいない。ごく普通の親戚の女性という感じである。どちらかというとわかりやすく、からっとした印象で、それほど厭味な人という印象もないので、自然とその表情は柔らかくなる。
「ええ。過日は、盛大な誕生パーティーを改めて感謝いたしますわ。サフィアス殿やレティーツィアさんにも、いつも良くしていただいておりますわ」
そこまで言ってから、ミーアは表情を引き締め、上目遣いに見つめる。
「それで……この聖ミーア学園に、なにかご用ですの?」
「いや、なに。こちらに陛下がおわすとお聞きしたゆえ。一言ご挨拶をと思ったまでのこと。それと、ミーア姫殿下の肝いりという学園を、妾も一度見てみようか、とな」
扇子を取り出し、パタパタとあおぐ。
「それで、陛下はいずこにおられるのかえ? ご挨拶をせねば。それに、ここは暑くてかなわぬ」
そうして学園に入って行こうとするヨハンナに、ミーアは言った。
「ええ、もちろん、ご案内いたしますわ。けれど……」
っと、一度言葉を切ってから、
「その前に、そちらのお供の方には謝っていただきたいですわね」
「へ……?」
ミーアが鋭い視線を向けたのは、男のほうだった。
さすがに、ブルームーン公爵夫人を責めるようなことはしない。今後のことを考えて、きちんと勢力の切り分けを図っておく。ヨハンナのお供でやって来たとは言え、この男とヨハンナは別に扱う、とはっきり示しておくのだ。
「どこの方なのかは知りませんけれど……」
「ああ、この者はグロワールリュンヌの教師じゃ。我がブルームーン公爵家の縁戚であるフーバー子爵じゃ」
フーバー子爵、と呼ばれた男は、深々と頭を下げる。
「以後、お見知りおきを。ミーア姫殿下。我がフーバー子爵家は、グロワールリュンヌにて長く教鞭をとっております」
「ほほう、グロワールリュンヌで……」
ミーアは静かに男を見つめてから、思わず唸る。
――なるほど、この方が、サフィアスさんのお手紙にあった方なのかしら……?
首を傾げつつも、とりあえず、先制パンチ、とばかりに釘を刺しに行く。
「教師と言うのであれば、しっかりと礼儀を心得ているでしょうし、安心しましたわ。ならば、わかりますわよね? 悪いことをした時に、どうしなければならないか……。それに、この子どもたちがヴェールガ公国の庇護下にある子どもたちであるというのが、どういう意味を持っているのか……。その子たちに、どのような態度を取ればいいのか、ということも」
腕組みしつつ、ミーアはジロリ、と睨みつける。けれど……。
「おお、なんと。知らなかったこととはいえ、それは大変な失礼をしてしまったものじゃ」
いささか、芝居がかった声を上げたのは、ヨハンナのほうだった。
「皇女殿下たるミーア姫殿下のお客人に、そのような無礼を。従者の罪は、主の罪であろ。妾の供が、すまなんだ。許してたもれ」
そうして、ヨハンナは素直に子どもたちに頭を下げる。それを見て、ミーアはまたしても意外な想いに囚われるが……。
「さて……これで、よろしいかえ? ミーア姫殿下」
「え……ええ。そうですわね。それでは、ご案内いたしますわ」
毒気を抜かれたミーアは、しぶしぶ頷く。それから、特別初等部の子どもたちに目を向けた。
「大丈夫? 帝国の貴族が、大変申し訳ないことをしましたわ」
その言葉を受けて、子どもたちは、ビックリした様子で、それから、慌てて首を振った。
「……大丈夫。ドミニクさまが、守ってくれました」
代表して、パティが報告してくれる。静かな瞳でジッと見つめてくるパティを見て、ミーアはその真意を悟る。
――信賞必罰ですわね。なるほど、確かにその通りですわ。
それから、ミーアはニッコリ笑みを浮かべて、ドミニクのほうを見て。
「ドミニクさん。特別初等部の子どもたちを守ってくれましたのね。感謝いたしますわ」
「なっ! なぜ……どうして、俺のことを……」
「ベルマン子爵のご子息、ですわよね? もちろん、存じておりますわ。ミーア学園の生徒として、よくやってくれましたわ」
優しい口調で言って、それから踵を返した。
そうなのだ、ミーアは、彼、ドミニクが何者なのか、きちんと知っていたのだ。
なにしろ、彼は、例のヤベェ小麦畑のアイデアを出した要注意人物である。チェックしていないわけがないではないか!
ミーアは、学園に来た初日に、ガルヴからそのことを聞き出しており、それが、あのベルマン子爵の息子だと聞いて、ギリギリと歯ぎしりしたものだった。
「ぐ、ぐぬぬ、ベルマン子爵も厄介な方でしたけど、その息子が、まさか、あのようなことを企もうなどと……」
なぁんて、憎々しく思っていたのも今は昔……。
――帝国貴族に嫌がらせを受けたけれど、それを守ったのも帝国貴族だった。となれば、まぁ、ある程度の悪評は相殺されるのではないかしら……。
腹の中で、そんなことを思いつつ、ミーアはヨハンナたちの案内に戻った。