第五十六話 ミーア姫、パンケーキの浪費は避けたい所存
「水土の薬、ですか……」
記憶を探るように、ユバータ司教は瞳を閉じた。そのまま考え込むことしばし……。
「いえ、申し訳ございません。ミーア姫殿下。すぐに思い当たるものはございません」
わずかばかりの困り顔で、そんなことを言った。
「そう。ちなみに、火風の薬というのはいかがかしら? これは実際に蛇が使った薬で……灯台を吹き飛ばすほどのとんでもない物なのですけど……」
「なんと、そのように恐ろしいものが……?」
ミーアは一つ頷いて、それからハンネスの受け売りの知識をユバータ司教に披露する。水土、火風、どちらの薬も創世神話における二つの果実を用いた薬であることを口にした時点で……。
「なんと……。創世神話の木の実が材料? そのようなことが……」
衝撃を受けた表情で固まるユバータ司教に、ミーアはちょっぴり慌てる。
「もちろん、彼らが勝手にそう名付けているだけかもしれませんけれど……」
「はい。確かに……神話に基づいて、単純に名前を付けただけかもしれません。あるいは、神聖典を汚すために、あえて、そのように地を這うモノの書に取り込んだか……逆に、地を這うモノの書の権威付けとして使っているだけかもしれませんが……」
ユバータ司教の声は、とても硬かった。
もしも仮に……蛇と言うものが創世の時代より存在しているモノであるとするならば、その脅威は、後の時代にパッと出て消えていく、泡沫のような邪教の集団よりも大きいからだ。元より、蛇の脅威度は高かった。けれど、その存在が超古代から生きながらえているものだとするならば、改めて、その恐ろしさを実感せざるを得ない。
古さとは、時に一つの権威だ。古から語り継がれてきた言葉には、重さが宿るし、人々に対する影響もより広く深くなる。
まして、世界の始まり、創世の時代よりの悪が、今、直面している敵であるとするなら、その脅威は計り知れない。
どこか呆然とした様子のユバータ司教に咳ばらいを一つして、ガルヴは言った。
「実際のところ、古き時代から語り継がれてきた知識であるならば、語源的な変化も考えたほうがよろしいかもしれませぬな」
「はて……語源的な変化、ですの……?」
なんのことやら、と小首傾げるミーアに一つ頷いてから、ガルヴはユバータ司教に目を向けた。
「神聖典の専門家、言語のスペシャリストたるユバータ司教がおられるのであれば、自分などが指摘するまでも無きことかとは思いますが……。簡単に言ってしまうと、その薬を言い表す名前が、現代とは異なる可能性がある、ということです。水土の薬と火風の薬、その名のつけ方は四元論に基づいたやり方でしょうが、その考え方が発生したのは、創世神話の時代より後のことになる。ゆえに、それ以前の資料では、薬の呼び名が変わっている可能性があるのではないか、と」
「なるほど。知恵の木の実の薬と命の木の実の薬、と、創世神話の言葉に合わせるならば、そんな呼び名で記録されている可能性もありますわね」
「さようでございます。また、同じように二つの木が生えていたとされる地名であったり、その他の地名も、なにか別のものに変化している可能性もございます」
「言葉は日夜変化する、ということですわね。実に厄介な話ですけれど……」
将来的に「帝国の叡智」の意味が「あり得ないほどの幸運」と置き換わる可能性だとてゼロではないのだ。むしろ、真実が明らかになれば、その可能性が高いとすら言えるかもしれないわけで……。
「もっとも、創世の時代の木の実を材料とする薬というのが、どこまで本当なのかは定かではありませぬが……」
ガルヴの言葉に、重々しく頷いてから、ミーアは改めてユバータ司教のほうに目を向けた。
「……いずれにせよ、今すぐに、という話ではありませんわ。今はパライナ祭のほうに尽力したく思っておりますし……」
腕組みし、ビシッと言うミーアである。
今、目の前に迫っている問題は、パライナ祭を無事に開催し、大陸各国に新種の小麦の存在を知らしめること、その栽培方法を伝授することである。
事の優先順位を誤ることのない、非常に有能な皇女殿下なのである! ……などということは、もちろんなく……。それは、ちょっとした逃避から出た言葉であった。すなわち、
――複数の言語体系を視野に入れた調べ物とか……聞いただけで頭が痛くなってきますわ。うう……想像しただけで甘い物が不足してきてしまいますわ。
これである。
なので、とりあえず、忙しいアピールをしておいて「なんなら、私のほうで調べておきますが?」と、ユバータ司教が言い出さないかなぁ、と期待してしまうミーアである。
本当であれば、ルードヴィッヒかハンネス辺りに行ってもらって調べてもらいたいところではあるのだが……。ルードヴィッヒが帝国を離れている間に、ギロちんがひょっこり訪ねてきたら一大事である。それに、ハンネスは蛇と繋がりが深いクラウジウス候だ。そんな人物を派遣したとあっては、ヴェールガとの仲がこじれてしまいかねない。
であれば、少なくともミーアが家臣団を率いていくという形を整えなければならないわけで……。
そして、帝国の叡智が同行しているとなると、ルードヴィッヒらが、どんなことを言い出すかは、なんとなくわかっているわけで……。
――わたくしのところに資料がたっぷり集まってきて、読まされる未来が見えますわ……。
そんなことになってしまったら、いったい何枚のパンケーキを犠牲にしなければならないというのか! とミーアは悲嘆に暮れる。
きっと十枚、二十枚では済まないパンケーキを食べる羽目になるだろう。
ミーアは難しい顔でうつむきつつも……。
――それはそうと、今日のオヤツはパンケーキにしようかしら……?
などと思うのであった。




