第四十九話 パティの戦い、バッドエンド
今回、ほろ苦ビターです。ご注意ください。
ハッピーエンドを目指す五部以降なのですが……ほろ苦ビターです。
「どうも、いかんな……」
皇帝マティアス・ルーナ・ティアムーンは、聖ミーア学園で演説するミーアを見て、ちょっぴり涙ぐんでいた。
この姿を妻、アデライードにも見せたかった……などと思うと、どうにも泣けてきてしまって……。
「年のせいか、涙腺が緩くなっているようだ……」
目元を拭いつつ、つぶやく。
年のせいといえば、ここ最近、記憶のほうも、いささか怪しいところがあった。
先日、ミーアと話した時……クラウジウスの別邸が焼け落ちたのは、母が亡くなった後だと話をしたが……。
「よくよく考えれば……あの時はまだ母上は存命だった……」
その後、母が火事で死んだ時には、思わず背筋が寒くなったものだった。
まるで、あの別邸の火事で死ななかった母を、火事が追いかけてきたようだと思った。その火事に妻アデライードまでもが巻き込まれそうになったと思えば、まさにクラウジウス家の「呪い」ではないか……、などとその実在を、一瞬とは言え疑ってしまったほどだった。
その記憶は確かにあるから、間違いはないはずなのだが……。
「どうも、記憶違いが酷いな……」
彼の中、対立するもう一つの記憶があった。
それは、クラウジウス家の火災よりも前のこと。行方不明になったパトリシアは遺体で発見されたという記憶だ。
彼女の弟、クラウジウス候ハンネスは自暴自棄になり、別邸に火を放ち、自らも命を絶った、などと言う噂を耳にした記憶が確かにあったのだが……。
「思えば、どちらにせよ、私は母上の死に際にお会いすることができなかった。親不孝なことだが……」
深々とため息を吐くマティアスであった。
矛盾する二つの記憶。それは、過去が変わりつつある、一つの証左。
パティによって、歴史は少しずつ揺らいでいた。それは例えば、彼女自身の死にまつわる運命のことで……。
白月宮殿で、皇太后パトリシアが落ち着ける場所は多くない。
どこに蛇が潜んでいるかわからないうえ、味方はほとんどいない、孤立無援。それゆえ、気を抜くことは許されない。
上手く蛇として立ち回りつつも、なんとか状況が有利になるようにするために……。
――ミーアお姉さまが作ろうとしていた、あの幸せな世界を、この帝国にもたらすために、私は頑張らないといけない……。
さて、そんな彼女が気を抜ける数少ない場所、そここそが、中庭にある寂れた小さな花壇の前だった。
彼女の夫も息子マティアスも、ここには滅多に近づくことはない。
ただ一人、パトリシアが花と蝶を愛でながら、のんびりできる場所が、その場所であった。
咲き誇る花をぼんやりと眺めながら、彼女は以前、命を狙われた時のことを思い出していた。
――あの時は、危なかった……。
蛇からの命令を保留としたことで、反感を買い、命を狙われたのだ。
間一髪と言うところで、彼女が逃げ込んだのは、帝都の一角、シューベルト侯爵邸だった。
――ヤナが、助けてくれたのかもしれない。
親友と共に、連れ込まれた地下道。あの時の経験から、抜け道の存在を知っていたパトリシアは、いつか、なにかに使えないかと思っていたのだ。
今回、それが、見事に役に立った。
――守られている……。そんな気がする。
孫娘……ミーアに。あるいは、親友のヤナに。
――私が、あそこで死んでしまったら、歴史が変わってしまったかもしれない。下手をすると、ハンネスの脱出にも影響があったかも……。
幸い、暗殺は未然に回避し、否、回避したことすら気付かせなかったパティである。
その後、保留としていた蛇の命令も誤魔化すことに成功。なんとか生きながらえてはいるが……。
――私が敵対していると、気付かせたらいけない。殺されそうになったと私が認識していると、そう思わせてもいけない。あくまでも、私は、蛇の一員だと自任している、と思わせなければならない。
パトリシアの戦いは、孤独なものだった。
彼女の味方はあまりにも少ない。否、少なくなければいけなかった。
あの歴史に……あの未来に行きつくために……。
――私の役目は、あくまでも、その先触れ。ミーアお姉さまの到来への備えをすること。未来を変えてはいけないから……。
自身の些細な行動が、あの幸せな世界に影響を及ぼし得ることを、彼女は知っていた。
それゆえ、犬の名前だなぁ、犬の名前なんだよなぁ! と思いつつも、我が子にマティアスと名付けたりもしたが……そこは変えても良かったんじゃ? と若干思わなくもないが……さておき。
すでに、マティアスは生まれ、アデライードとの婚姻もなった。
ついでに……息子マティアスに「……皇帝の子は社交ダンスが大事。さまざまな場面で恥ずかしい思いをしなくて済むよう、くれぐれも、生まれてくる子にはダンスを厳しく仕込むように」などと言いつけていたものだから、後々で、ミーアが苦労する羽目になったりするのだが……それもご愛嬌というものだろう。
イエロームーン家やガヌドス港湾国、ペルージャン農業国への根回しも、粛々と進めて、やるべきことは、ほとんど終わっている。
あとすべきことは……一つだけだった。
――古き蛇……。古の、初代皇帝の時代より連綿と続く蛇の流れ……それを、私のところで断つ。
未来の世界を知るパトリシアには、不思議なことがあった。
それは、あの世界の帝国の蛇が……あまりにも脆弱だったこと。そして、あまりにも独立し、勝手気ままに行動しているということ。
対して、パトリシアの時代……蛇は遥かに組織立った動きをしていた。それゆえに、未来を知るパトリシアでさえ、ほとんど自由に行動することができていなかったのだ。
その理由は、明らかであった。
帝国内の古き蛇たちをまとめ上げる人物が――この時代にはいるのだ。
かつて、蛇の巫女姫ヴァレンティナは言った。蛇とは、決して滅びない感染する思想である、と。だから、それぞれが、地を這うモノの書に従い、混沌へと向かう行動をとり、教えを広め続ければ、いずれ、世界は滅ぶであろう、と……。
されど、誰もがそのような境地に至れるはずもない。不安を持った者の中に、より効率的に破壊活動ができるよう、結束力を持ち、組織立って動こうとする者が現れても、不思議ではなかった。
白鴉を使い、組織的に破壊活動を行おうとしたジェムのように……かつての帝国にも、蛇たちを束ねる者がいたのだ。
されど、それが何者であるのか……その謎はついぞ解けなかった。
そして、ミーアの時代には、その者はいなかった。なぜか……? その問いに、パトリシアは胸の内で応える。
――私が、仕留めていたから……。
そう、それは、一つの逆算だった。
あの、ミーアの時代に、帝国の蛇は弱体化していた。白鴉の台頭に合わせるでもなく、息を潜めていた。それはなぜか……? 蛇を導く指導者が失われたからではないか?
ではいつ? どこで……?
また、マティアスには一切、蛇の影響が及んでいないのは、なぜか?
そんなの決まってる。
――私が、刺し違えた。だから、あの世界の蛇たちは、マティアスや、ミーアお姉さまに、ほとんど有効な手出しができていなかったんだ。
そう考えたパトリシアは、一つの罠を張った。
それは、自身の命を使った罠。すべては、あの幸せな世界を迎えるために……。
パティの推論は、彼女にしては珍しく短絡的で、安直なものであった。
それに、自分の命と引き換えに、敵を殺すというのは、ミーアが示したやり方からも遠いものであった。されど、パティはそれを実行した。
そうせざるを得ない、別の事情が、彼女にはあったからだ。
――私は、マティアスを裏切った、アデラを裏切った……。ミーアお姉さまを……裏切ってしまった……。
胸の内にあるのは一つの後悔だった。
されど、それが裏切りであると理解してなお、後悔していてなお……過去に戻ったとしても、やはり同じ行動をとってしまうであろう……つまりは、パティの譲れない気持ち。
その蒔いた種の刈り取りは、自分でしなければならなかった。そうでなければ、蛇はマティアスを容易に操るだろうから……。
「あの者を殺す……。それもまた、マティアスやミーアお姉さまにとっての裏切りになってしまうけど……でもやらなければ……」
パティが、自らの死を知ってなお、その燃え落ちる館に赴いた理由。そして、火事に巻き込まれることを知ってなお、アデライードとヨハンナとを伴った理由。
それは、その日、帝国の蛇の首魁をおびき寄せ、仕留めるため。
そして、それはある秘密を知る者を葬り去るためのもの。
ゆえに、炎に巻かれながらも、パトリシアは幸せだった。
すべてをやり遂げた……赤く染まる世界の中、けれど、その胸にあるのは小さな満足と罪悪感で……。
「……できれば……もう一度だけ、あの世界を……。私のしたことが許されなかったとしても、それでも……もう一度……」
つぶやきは、炎の中に溶けて、誰の耳にも届くことはなく。
崩れ落ちる館が、パトリシアの体を包み込んでいった。




