第四十八話 拡散すれども、薄まらず2
「どうでしたかな? ミーア姫殿下は……」
ミーアの話が終わり、生徒たちが教室へと戻っていった後のこと。
学長ガルヴに話しかけられたユバータ司教は、深々と息を吐いた。まるで、高ぶる感情を鎮めるかのように……。
「あれが、ミーア姫殿下の演説ですか……。なるほど……。正直に申し上げまして……」
軽く眼鏡の位置を直してから、
「圧倒されました」
ミーアの言葉の一つ一つを思い出しながら、ユバータ司教は目を閉じる。ミーア記念館で目にした素晴らしき発言録に、先ほどのミーアの演説は全く劣らぬものだった。
「各国の、力の弱い子どもたちを助けたいという想い、救われた者たちに、自分たちと同じような子どもたちを救う機会を与える配慮、さらに、特別初等部の子どもたちへの気遣い……。非の打ち所がまるでありません」
ユバータ司教の胸には、もはやミーアを疑う気持ちなど、微塵もなくなっていた。まぁ、ここに来る前に、すでにそうなっていたような気がしないではないが……。
っと、そこで言葉を切って、彼は静かに腕組みする。
「しかし、一つだけわからぬことがあります。ご自分の彫刻や、あの畑の絵を咎めなかったことです。あれには、いささか戸惑いましたが……」
あのような、個人の神格化へと繋がるような発想を止めない理由が、なにかあるのだろうか……。
――凡百の王族であれば、理解できる。王侯貴族と言うのは、しばしば、自らの力を過大に見積もり、神として崇められるという欲求に抗えなくなるもの。されど、ミーア姫殿下は、そのような愚劣な者たちとは違う。おそらくは、学生たちの自主性を尊重することを良しとされたのだろうが……。
難しい顔をするユバータ司教に対して、ガルヴは、
「ああ……あれですかな」
どこか悪戯を企んだ少年のように、ニヤリとした笑みを浮かべた。
「確かに、彫刻に関してはわかりかねます。学生たちの忠誠の発露なので咎めなかったというのが、妥当な理由でしょうが……。されど、あの畑アートに関しては、おそらくミーア姫殿下も、その有用性を認められたゆえ、と思っておりましてな」
「有用性……ですか?」
首を傾げるユバータ司教に、ガルヴは深々と首肯して……。
「さよう。帝国貴族に巣食う、馬鹿げた思想のことはご存知ですかな?」
「初代皇帝の時代より培われた、反農思想のことでしょうか。報告は受けていましたが、しかし、にわかには信じがたい思想です」
例の初代皇帝ゆかりの無人島を調査している者たちから報告は受けていた。
蛇の影響で帝国に根付いてしまった悪しき思想、反農思想。それを聞いた時、けれど、ユバータ司教の脳裏にあったのは、そんな馬鹿な、という想いだった。
「食は、日々必要な物。貴族とは言え、それは変わらない。だというのに、農業に携わる者たちを見下すなどと……そんな馬鹿げたことが本当にあるのかと不思議に思っていたのですが……」
「まことに残念なことながら……。肥沃なる三日月地帯であるがゆえに、なんの苦労もなく農作物が作れてしまう。ゆえに、農民とは誰でもなれるもの、農業とは非才な者のすることである、と……そのような常識がまかり通ってしまっているのです。そして、さらに愚かなことながら、その常識を塗り替えるのは、容易ではない」
今まで馬鹿にしていたものを、突然、良いものですと言われたところで、そうそう納得などできないのが人間と言うものだ。誤ったプライドで凝り固まった貴族たちであれば、なおのこと、それは容易なことではない。
「そうでしょうね。理を説けば納得する者もいるかもしれませんが、多くの者たちは反発するでしょう」
人とは、保守的な生き物だ。自分の価値観や生き方を変えることには、強い抵抗を覚える。仮に、目の前で理を説かれたとしても、仮にそれが正しかったとしても、なかなか従うのは難しい。
「仮にミーア姫殿下や皇帝陛下が命じたとしても、中央貴族の中には、それに従わない者たちもいるやもしれませぬ。少し考えれば、自身が不合理の中にいることは十分理解できるはずなのに、それでも、なお、思考することをやめ態度を改めぬ者がいるやもしれぬ」
ガルヴは髭を撫でながら言った。
「そこで、我々は上書きを試みようと思いましてな」
「上書き……ですか?」
「さよう。帝国に沁みついた反農思想に対しての上書きです」
「ああ、なるほど。つまり"農業が良いものだから"という理由で畑を作らせるのではなく"ミーア姫殿下の姿を畑に描くため"に畑を作らせようと?」
「まさに。小麦畑にミーア姫殿下のお顔が描かれたアートを皇帝陛下はいたく気に入られた、と貴族たちに教えてやるのです」
「そうすれば、貴族たちは、皇帝陛下から気に入られるために、自領の小麦畑にアートを作る」
「農業が見下される状況を真っ向から否定しても、凝り固まった価値観は揺らがぬでしょう。それは守備の固い砦を落とすようなもの。ならば、正面から戦うのは愚かなこと……」
真っ向から農業は良いものだから畑を増やせというのは難しい。ならば、搦め手をもって……。貴族の者たちの価値観に合わせて、アプローチをしていく。その手腕に、ユバータ司教は思わず瞠目する。
「そして、この話には説得力が重要でしてな。ミーア姫殿下の小麦畑アートであれば、皇帝陛下が喜び激賞した、という話にも説得力が出る」
「なるほど……あの畑アートには、そういう意味が……。そして、ミーア姫殿下は、それを読み切った、と、そういうことですか?」
「そうですな。なにせ、そうでなければ、我ら臣下のすることを完全に信頼しているから何も言わなかった……ということになってしまいそうですし……。さすがに、そこまで自惚れてはおりませんでな」
おどけた口調で肩をすくめるガルヴに、ユバータ司教は尊敬のまなざしを向ける。
帝国の叡智の下にはせ参じた老賢者に、この素晴らしき学園を運用する立役者に敬意を抱くユバータ司教であった。




