番外編 皇帝と子爵と
話は少しだけ遡る。
ベルマン子爵邸での、夜の風景。
子どもたちが寝静まった頃、皇帝マティアスは、ベルマン子爵と共に応接室にいた。
深々と椅子に腰かけ、ワイングラスを片手に上機嫌に笑う皇帝。それを見て、ベルマンは眉をひそめた。
「陛下、その、よろしいのでしょうか……。このように、酒を酌み交わすなど……この栄誉は、我が身には余ります」
ベルマンは、所在なげに、ワイングラスを持っていた。中に注ぎ入れられたワインは、あろうことか、皇帝が手ずから注いだものだった。
身に余る光栄、どころの話ではない。一子爵に向けるには到底あり得ぬほどの、皇帝の態度に、彼は逆に恐ろしくなった。
なにやら、無茶なことを言われるのではないか……などと言う不安が、ふつふつと胸の中に湧いてくる。
「そう固くなるな、と申しておろうが。ここは、公式の場ではない」
そんなベルマンの胸中を察したのか、マティアスは穏やかな口調で言った。
「それに、家臣と酒を酌み交わし、その胸の内を聞いておくことも必要である、と私は考えている」
その言葉に、一応は安堵して、ベルマンは少しだけ肩の力を抜く。
「それで、どうだ? 命じてあった皇女の町は……」
「はっ! 皇女の町には、我が子爵領の総力を挙げて取り組んでおります。すでに、各地の商人にも声をかけ、いくつかの商店ができています。それに、開拓団として、領民の一部に募集をかけ、税の優遇措置を褒美として、移住を進めています。幸いにも、予定していた人数はすぐに埋まりまして……」
領民の中でも、特に行き場のない農家の次男、三男が積極的に参加したことが、逆にミーア学園との相互協力を進めた。
学園の周りに実験的な畑を作り、そこでいくつかの新種の小麦を並行して育てること。そのための働き手が絶対的に必要だったのだ。
放っておけば働き口にありつけず、場合によっては賊になっていたかもしれない者たちを、有効に活用できたことで、領内での子爵の評判は上がっていた。
「ほう……」
ベルマンの言葉に、皇帝は興味深そうに頷き、それから、ワインに口をつける。それから、髭を撫でつつ、
「そうか……。皇女の町は順調か。して、ミーアが手掛けているという学園のほうはどうか?」
「はっ! 聖ミーア学園は、姫殿下がお選びになられた者たちが務めに当たっておりますゆえ、私は一切口出しをしておりません。我が務めは、学園に通う生徒たちが気兼ねなく学業に専念できるよう、周りの設備を整えることと心得ております」
深々と頭を下げるベルマンに、マティアスは威厳たっぷりに頷く。
「うむ、それでよい。ベルマンよ。その忠誠と謙遜、余は嬉しく思うぞ」
実に、実に! 皇帝らしい口調でマティアスが言った。それを受け、ベルマンは、ははーっと平伏する。
「恐れながら、実は、ミーア姫殿下のご栄光を少しでも表すことができるよう、町のほうには趣向を凝らしましてございます」
「なるほど。それは、つまり、子爵の忠義が形になったものだな……。ふふふ、楽しみだ」
上機嫌に笑って、ワインをもう一口。
それから、マティアスは不意に、声を低くして……。
「ところでな、ベルマンよ。これは、ここだけの話にしておいてもらいたいのだが……」
「はっ!」
ベルマンは素早く頷き、部屋の中に控えていた執事を下がらせる。きびきびとしたその動きを黙って見つめてから……マティアスは続ける。
「ベルマンよ……改めて問いたい。貴公の忠義は、どこに向く?」
「はっ! 我が忠節のすべてはこの帝国に。そして、皇帝陛下、並びに帝室の方々に。我が身命を賭して、我が子孫、一族の身命を賭して、この忠節に尽くす所存にございます」
「うむ……」
重々しく頷いてから、マティアスはおもむろに口を開いた。
「それでは……ベルマンよ。そのお前の忠義の向かう先を、変えてもらいたい、と言ったら、どうする?」
「……と言いますと?」
片眉を上げ、ベルマンは問うた。皇帝マティアスの言葉は、彼の理解を軽く超えていた。
それを受け、マティアスは一口、ワインを口にしてから。
「単刀直入に言おう。ベルマンよ、その忠義を、どうか、我が娘、ミーアのほうに向けてはくれないか」
その言葉に含まれた意味を吟味して、ベルマンは驚愕に固まる。
「それは……つまり……ミーア姫殿下に帝位を譲る……そのことを支持せよ、と……?」
問いかけに、けれど、マティアスは直接は答えなかった。
しばし、考え込むように黙ってから……。
「こんなことを言うのは、どうかと思うのだがなぁ。ミーアはなぁ……頭が良いのだ」
照れくさそうに笑みを浮かべて、
「あれは私ではなく妻に似たのだろうな……あるいは、我が母のほうだろうか。聡明で、この国のことを冷静に見て、明日、明後日ではなく、二年後、三年後、十年後のことまで視野に収めている」
「はい。存じあげております。我が子爵領が栄えているのも、すべて姫殿下の叡智によるものでございます」
「ああ、そういえば、そうであったな」
上機嫌に笑ってから、マティアスは言った。
「あれが女帝になれば、良い統治者となるだろう。が、継承権の問題には、四大公爵家が絡んでくる」
「星持ち公爵家の方々……特に、男児を持つブルームーン家を筆頭に、イエロームーン家以外の三家とその派閥に属する貴族たちは反対するでしょうな……」
「そう。我ら帝室は、四大公爵家の上に立つ者。ゆえに、独自の派閥というものを持たぬ。まして、ミーア個人を支持する派閥というものは存在しない。なので、その辺りのことのフォローは余が……と思っていたのだが……」
マティアスは、そこで苦笑いを浮かべる。
「ミーアと家臣の者たちは、上手く四大公爵家とも接近して、しっかりと固めてしまっているようだ。だから、余にできることはこのぐらいだ」
それから、皇帝マティアスは改めて、ベルマンのほうを見つめて……。
「ベルマンよ。これから先、ミーアが女帝の地位に就く時、もしも、他の四大公爵家と揉めるようなことがあったとしても、貴公はミーアの味方として、忠義をささげてもらいたい」
「過分なお言葉……痛み入ります。ですが、陛下、ミーア姫殿下は、すでに、辺土貴族からの絶大な支持を受けておられます。彼らこそが、姫殿下の派閥の中核となる者たちでは……?」
ベルマンには、かすかな罪悪感があった。
ミーアが自身のもとにやって来た経緯。皇女の権威を利用しようとしたことに。
だからこそ、ミーアのことは支持するし、力を貸せと言われればいくらでも出し惜しみはしないつもりであったが……ミーアを支持する派閥に自身がはせ参じても良いものか、という気後れがあったのだ。
けれど……。
「わかっている。辺土貴族は確かにミーアの味方をするであろう。が、それは中央貴族と辺土貴族との間に深刻な亀裂を生むであろう。ならば、中央貴族の者の中にもミーアを直接的に支持する者が必要なのだ」
その理屈は十分に、ベルマンにも理解できるものであった。そして、自分が選ばれたことが誇らしくもあった。
「陛下……私のような小さき者に、過分な務めを与えていただき……歓喜の念に堪えません。ええ、大いなる喜びを持ちまして、我が忠義をミーア姫殿下に。そして、変わらぬ忠義を陛下におささげいたします所存にございます」
その返事に、マティアスは満足げに頷き、
「さぁ、今夜は大いに飲むぞ、ベルマンよ。貴公の子の話も聞かせてもらおうか」
かくて、ベルマン邸の夜は更けていくのだった。




